第6杯 年明け
時は1940年を迎えました。
この年はまさに地獄の始まりの年だったのです。しかし、5月になるまでそれを世界は知りませんでした。
「おはようジャンヌ」
「おはようエマ」
12月と風邪を乗り越えた彼女らは再びお店を再開しています。しかし、フランスは12月から2月までが真冬。雪すら降ることもあります。
「今日は雪だってさ」
「また雪だるま作る?」
「冷たいからやだなぁ」
朝からジャンヌは元気いっぱいです。
「よし。じゃあ今日も頑張っていこー!」
同年
ドイツ第三帝国
首都ベルリン
「やっぱり最高だねアウトバーンは。制限速度が存在しないなんて画期的すぎる」
アウトバーンは1932年に開通したドイツの高速道路です。最大の特徴である制限速度が無いというのは、当時の車は最大速度は今より遅かったためです。現代は(私の知人の体験談によると)300km/hほど出しても大丈夫なのですが、あまりの出しすぎは危険運転として警察のお世話になるとか。
「ねぇ…。その、1つ相談があるんだけど」
「なんだい?」
「…もし、政治の世界に入って、活躍できるならフランスに戻ってもいい?」
「フランスに戻ってどうするのさ?あの喫茶店でまた働くのか?」
「ううん。フランスで政治活動したい。きっとフランス人全員がファシズムに反対してるわけじゃないと思うし、もしかしたら受け入れてくれる場所があるかもしれない」
「なかったらどうする?」
「私が作る。その組織を」
「…まぁ、君の人生だ。そこは自分で決めな」
イリスには確かにフランスが恋しい気持ちが残っていました。店の人たちを置いていったこと、心配させてしまっていること、別れを言えなかったこと。しかし、フランスの情勢に強い否定感を感じ始めたイリスは、フランスの政治を変えドイツ寄りにすれば良いと思っていたのです。しかし、体制を180度変えることはナポレオンのような人間でない限り不可能に近く、最近のフランスは革命も少なかったため余計に成功の確率は低かったのでした。
そこで考えついたのがファシズム派やドイツ派のフランス人を集めた組織を作ることでした。総統の思想や演説、ゲッベルスの宣伝を聞けばきっと集まると考えていたのです。そう、イリスはほとんど染まってしまったのです。
「…待っててみんな。フランスを幸せな国にして助けてあげるから!」
「今日は居ないの?」
「すまない。どうしてもイリスには教えられないんだ」
「…そっか」
「今日中には帰ってくるけど遅くなる。ごめんね」
そのまま自転車に乗り彼氏は去って行ってしまいました。
イリスは自室に戻り白黒の写真を眺めます。それはみんなが写っていた集合写真でした。裏側には5.17 1934と書かれています。
「…もう少しで6年経つんだ…懐かしいな…あのクロワッサン、もう一度食べたい」
レ・キャフェイ・カデの懐かしき祖国の味。焼きたてのフワフワでサクサクしていたクロワッサンは、ドイツでは手に入らなかったのです。
クロワッサンの起源は17世紀のオーストリアと言われています。隣国だったゲルマン人国家らですが、食文化の違いで、ドイツではライ麦パンや黒パンが主流だったため広がらなかったという説があります。故に、クロワッサンがドイツに入ってくるのは第二次世界大戦後となったのでした。つまり、この1940年にもドイツではクロワッサンは食べられていません。再現しようにも当時は戦時下。戦争中のドイツには材料等は軍に回されています。
「…はぁ…私、合ってたのかな、これで」
溜め息を吐き、考え込むイリス。後悔の念が押し寄せてはいましたが、もう引き下がるわけにはいきません。フランスを良くし、彼女らの暮らしをさらに豪華にしたい思いは本物でした。
「…まだ何もできてない。みんなをガッカリさせちゃいけないよ、私」
それからというもの、イリスは勉学に励み政治家への道を本格的に歩み始めます。この姿に彼氏は満足していたのです。応援するために様々な工夫をしました。問題を出したり、本物の政府関係者と対話させてみたりと、この勇姿と努力を知ったアイスナー少佐は海外へのファシズム派閥を国内で動かす諜報活動を軍部に持ち掛けたのです。これは義勇軍部隊の話も含まれていました。
ある日、イリスはアイスナー少佐に呼ばれます。
「イリス・ジャッド、只今到着いたしました」
「入りたまえ」
「失礼いたします」
部屋に入ると、そこにはアイスナー少佐と数名の親衛隊員が待機していました。
「イリス君。君と彼が提案した国外での活動について話がある。陸軍総司令部に話を通したのだが、随分と大きな話になってしまって国防軍最高司令部まで伝わったそうなんだ。議論の末に、今後の戦況を見てから決めるのだそうだ」
「…今後の戦況?」
「今のところ我々はポーレンのみ戦線を張った。だが今後はさらなる戦場を増やすつもりだ。どこかは伝えられないが、もしその戦場で勝利すれば外国人部隊結成も夢ではない。これがどういう意味かは分かるか?」
「…失礼ながら、理解しかねます」
「フランクライヒを攻める場合があるという意味だよ。君らが言う故郷に侵攻し、フランス人部隊や宣伝担当の組織を作る可能性があるんだ」
それはイリスの故郷を破壊するかもしれないという忠告。戦争には犠牲が必要なのです。
「…パリを破壊する前にフランスは堕ちます。絶対に」
「そうかい。イリス君、政治は残酷なものだ。それでも突き進むなら、時には人の心を捨てなきゃならん」
「それでも構いません。それにもうここまで来てしまいました」
「なら頑張りたまえ。君の努力はフランクライヒ嫌いの総統閣下にも響くかもしれんぞ」
「…はい」




