第5杯 パリの休日
「39度…少し高い方だね」
水銀が熱の温度を表します。
「料理人さん。消毒を始めてくれ」
「わかりました」
「ごめんなさい…私のせいで…」
もし飲食店の店員が病んだ時、店自体を臨時休業しなくてはなりませんでした。現在もこのパターンは存在します。
「いいんだジャンヌ。最近はイリスの捜索が多かったから疲れていたのだろう。疲れは夢中に取り憑かれるものだ」
「欲しいものはあるかジャンヌ?」
「今はお水だけで大丈夫…ありがとう…」
「しばらく寝ていなさい。薬を飲めばより良くなる」
カーテンを閉め、電気を消してジャンヌを寝かせます。
「最近は私たちも働きすぎているのかもしれない。1週間ほど休みを取ろうか」
「収入とかは大丈夫なの?」
「繁盛してきたからね。1週間ぐらいどうってことない」
ゴポゴポゴポゴポと空気清浄のやかんの沸騰が聞こえる中、ジャンヌは重たい瞼を閉じて夢を見ていました。
「イリス〜。もう1回、もう1回だけやらない?」
そこにはジュ・ド・ターブルをしていたジャンヌとイリスが居たのです。最近やっていなかったジュ・ド・ターブルはとにかく楽しく、ジャンヌにとっては全く飽きないゲームだったのです。
「うぇぇ?結構いい時間だよ?」
「もう1回だけ!お願い!」
「…1回だけだよ?」
「やったぁ!」
お互いがはしゃぐ中で、ドアが開きます。
現れたのは何者でもありません。ただ、逆卍という無機物が喋っていたのです。
「イリス。お前にはやるべきことがあるはずだ」
「うん。ジャンヌ、また今度やろうね」
「…どこに行くの?ねぇ、待ってよ。ねぇ!」
うなされ、遂に目を覚ますと時計は午後4時を指していました。
「…ィㇼㇲ…」
掠れた小さい声で彼女は嘆くのです。イリスと。
再び、重たい瞼を閉じるのでした。
一方、エマは小説を読んでいました。
『十五少年漂流記』はフランス作家、ジュール・ヴェルヌが書いた名作の1つです。
簡単にあらすじを話しますと、夏休みの中、15人の少年たちは旅をするために船に乗り込み、そのままとある島に漂流し冒険をするというものです。
ジュール・ヴェルヌは"SFの父"と呼ばれるほど偉大な作家でした。『十五少年漂流記』だけでなくノーチラス号で有名な『海底二万里』、地底世界を描いた作品の元とも言える『地底旅行』といった様々な人気作品を作り、それは現代までも知られ語り継がれるシリーズとなったのです。
「こんなに名作出してた人がたった35年前までいただなんて、ちょっと俄かに信じがたい話だな…」
栞を挟み小説を閉じると、少し気になったことを思い出したのです。
「…あの本、どんな内容だったんだろう…」
頭によぎるのは『我が闘争』。ドイツ語は読めず、イリスはハマるほど。本好きのエマにとって不思議な存在でした。ただ1つ言えるのは、"思想が感化される"ということ。読むのは危ないかもしれない。しかし、読まなければイリスの心情も分からないのかもしれないと考え始めたのです。
「…フランス語版、ないのかな」
財布とバッグを持ち近くの本屋さんに出かけます。
「…売り切れかぁ…」
ちょうどぽっかりと空いた本棚の空間。政治本が並ぶ中に無かったこの部分に存在したのは確かだと感じます。
「…やっぱ、読まない方がいいのかも」
エマは考え終わりました。
これは神様から"読んではならない"という告げなのだと。
料理人は消毒作業を終え、同じ料理人の友達たちとバーでワインを飲んでいました。
「お前は吸わないのか?」
「匂いが料理についちゃいますよ」
「こんな旨いものが嗜めないなんて損してるぜ?」
「でも不健康とか言われてますよ?」
実はこの時代、葉巻や煙草の危険性の実感が薄かったのです。危険性自体は言われていましたが、これは一般的ではなく専門家たちの間。これは当時全世界共通です。当時の喫煙率は男性の70、80%と非常に高く、また第一次大戦中には兵士の数少ない娯楽として大量量産され、それもあいまって喫煙者は増えたのです。しかし、誰でもOKだった時代ではなくなったのがこの1930年代の特徴でもあります。
"クールさ"や"大人っぽいさ"を理に学生すら吸っていた場合があるほどのこの時代、健康の概念から学生が吸うのはよくないと社会問題になったのです。アメリカ、イギリス、日本などでも対策が取られていましたが、フランスといったヨーロッパはこの喫煙率の上、喫煙の広告が多かったこと、男女関係なく喫煙率が高かったことから対策は緩やかだったそうです。
「都市伝説だよ」
「まぁまぁ。無理に吸わせるのは良くない。吸いたくなったら吸えばいいさ」
そう話して煙草の吸い殻を灰皿に置きました。
店長は相変わらずイリスを探していたのですが、半ば諦めていました。イリスがいつまでもここに縛られているわけにもいかない。前のお客さんの言葉を理解していたのです。彼女らもあと数年で大人。可愛い子には旅をさせよと言う様に、ドイツに行き、政治に関わるのも1つの選択肢なのではないか。店長は、迷ったのです。
「警部。やはりアルマーニュに向かった可能性が高いです」
「そうか…。わかったありがとう。店長殿、ここは、下がった方が良いかと。流石に他国に侵入するわけにも…」
「…そうだな。すまない、手間をかけた。きっとこれも人生だ。どう歩むかは、自分次第だろう…」




