第9話 赤い雨の降る夜
第9話です。
池田屋の軒先に到着した瞬間、俺の直感が警鐘を鳴らした。
あまりに静かすぎる。
そして、屋内に漂う「油」のような匂い――。
「……土方さん、足止めを」
俺は制止の声を上げようとしたが、それよりも先に、屋根の上から無数の影が降り注いだ。
長州の刺客たちだ。
彼らは俺たちが来ることを正確に予見していた。
入り口で突入を待つ隊士たちが、一瞬にして混戦に巻き込まれる。
「罠だ! 敵は待ち構えている!」
土方の怒号が響く。
だが、周囲はすでに囲まれていた。
高瀬が死の間際に言った「代償」の正体が、今ようやく理解できた。
あいつは単なる内通者ではなく、長州側に「俺たちが池田屋を強襲すること」をあらかじめリークし、さらに新選組の陣形を崩すための『撒き餌』として機能していたのだ。
池田屋内部からは、凄まじい怒号と刀が交わる音が聞こえてくる。
俺は一番隊を率いて入り口を突破しようとしたが、その行く手を阻むように、数人の刺客が立ちはだかった。
(……くそっ、この身体が!)
刀を振るうたび、肺から熱い血が込み上げる。
高瀬との戦闘で受けたダメージが、極限の緊張の中で爆発しようとしていた。
だが、ここで倒れれば、俺が変えたはずの歴史が、より悪い方向へ雪崩を打って崩壊する。
「総司! 無理をするな!」
隣で戦う土方が、斬り捨てた敵の血を浴びながら俺を庇う。
その背中はあまりに大きく、そして痛々しいほどに俺を気遣っている。
俺は奥歯を噛み締め、刀を逆手に持ち替えた。
史実の沖田総司は、ここで喀血して倒れる。
だが、それは「知識のない沖田」の話だ。
俺は知っている。
この建物の構造、隠し階段の位置、そして敵の戦術の癖まで。
「土方さん、二階へ! 奴らは屋根から逃がそうとしています!」
俺は叫び、あえて敵の包囲網の隙を縫って、建物の死角へと駆け出した。背後で血しぶきが舞う音がする。
雨が降り始めた。
それは京の夜を冷たく湿らせるが、俺の視界は高熱と血の味で真っ赤に染まっている。
――歴史を変えるための代償。
もしそれが「俺の命」であるなら、せめて最悪の未来だけは、俺の手で塗り潰してみせる。
俺は血に濡れた床を蹴り、池田屋の深淵へと足を踏み入れた。
そこには、俺を殺そうと待ち構える運命の、最も濃い闇が渦巻いていた。




