第8話 歪み始めた糸、池田屋の影
まぶたの裏に浮かぶのは、どんよりとした曇り空だった。
意識が浮上すると同時に、喉に張り付いた血の鉄錆びた味が口内に広がる。
俺は屯所の自室で、冷や汗に濡れた布団の上に横たわっていた。頭が割れるように痛い。
「……目覚めたか」
枕元で不機嫌そうに腕を組んでいたのは、土方歳三だった。
彼は俺が意識を取り戻したことを確認すると、深く息を吐き、手元にあった書簡を突きつけた。
それは高瀬が所持していた密書だった。
「高瀬は牢で自決した。……いや、毒を飲んで死んだと言うべきか。口封じだ。お前の告発通り、奴は長州の連中と繋がっていた」
土方の瞳には、深い疑念と、それ以上の哀しみが渦巻いていた。
俺が「未来を知っている」という決定的な証拠を突きつけた結果、彼の中にある「沖田総司」という人物像は、すでに過去のものになりつつあるのかもしれない。
「……土方さん。俺は、嘘をついていたわけじゃない」
「わかっている」
土方は俺の言葉を遮り、鋭い視線を窓の外に向けた。
「高瀬の死に際、奴はこう言い残したそうだ。『沖田総司は歴史の歯車を狂わせた。その代償は、お前たちが一番愛するものに降りかかるだろう』……と。お前、何か心当たりがあるのか?」
背筋に冷たいものが走った。
歴史の歪み――それは、俺が生き延びようと足掻くほどに、周囲に跳ね返ってくる運命の揺らぎなのか。
もし俺が池田屋で死なない未来を選んだなら、その代わりに誰が消える? 近藤さんか、それとも土方さんか。
「……あいつの戯言です。気にしないでください」
俺は努めて平静を装い、起き上がろうとした。
だが、体は鉛のように重い。
高瀬との戦闘は、俺の身体を確実に限界へと追い込んでいた。
「総司、今夜だ」
土方が低く、しかし力強い声で告げた。
「密書の内容を精査した。長州の連中は、我々が池田屋を嗅ぎつけたことに気づいている。……だが、奴らは逃げない。むしろ、俺たちを待ち構えている可能性が高い」
俺の心臓が音を立てて高鳴る。
史実の池田屋事件は、不意打ちによって新選組が優位に立った。
だが、敵が警戒し、待ち伏せをしているとなれば、それは単なる『突入』ではなく『殺し合い』に変貌する。
「高瀬が死に際に言った『代償』……まさか、これのことか?」
窓から見える空は、不気味なほどに赤く染まり始めていた。
池田屋へ向かう刻限は迫っている。
高瀬が命を懸けて仕掛けた『罠』は、俺たちが歴史を変えようとした瞬間に発動していたのだ。
俺は愛刀である加州清光の鍔を親指で弾いた。
歴史の修正力だろうが、運命の悪戯だろうが知ったことか。
俺は、未来を知る転生者として、この「殺し合い」に勝たなければならない。
たとえその先で、どんな絶望が待っていようとも。
「行こう、土方さん。……今夜で、全てを終わらせる」
俺は震える足で立ち上がり、死の宴が待つ京の闇へと足を踏み出した。




