第22話:名乗りの重み
走り去る主人と女将の背中に向かって、俺は衝動的に声を張り上げていた。
「待て! 俺は――新選組、一番隊組長・沖田総司だ!」
その言葉が、夜の山間に奇妙な余韻を残して消えた。
主人が足を止め、震える足でゆっくりとこちらを振り返る。
隠していた看板を、あえて叩き割るような名乗りだった。
今の俺は、ただの療養中の隊士ではない。
組織の威光を背負い、彼らの恐怖を「公的な権威」でねじ伏せるしかない――そう判断したのだ。
「……新選組、だと?」
主人の顔から血の気が引き、今度は恐怖の質が変わった。
ただの侍相手なら逃げ惑うこともできただろう。
だが、京の暗闇を支配する「人斬り集団」の名を突きつけられれば、彼らには黙る以外の選択肢は残されていない。
「この死体どもは、我々新選組が追いかけていた長州の過激派だ。貴殿らがこの惨状を見たことは、公儀への協力とみなす。……だが、口外すれば、お前たちがどうなるかは分かるな?」
俺の声には、自分でも驚くほどの冷徹さが宿っていた。
それはかつて、土方さんの背中を見て学んだ、組織の冷酷な手口そのものだった。
主人は恐怖に硬直し、ただ頷くことしかできない。
俺は彼らがふらふらと宿の方へ戻っていくのを、薄い月明かりの中で見届けた。
ようやく一人になった露天風呂の石段に座り込み、俺は大きく息を吐いた。
身体の震えが止まらない。
死体の懐を漁る姿を見られた以上、中途半端な嘘は通じない。
だが、新選組と名乗ったことで、俺は自分自身を京の政争という激流の中に再び引き戻してしまった。
その時、宿のほうから戻ってきた龍馬が、遠巻きに俺の姿を見ていた。
彼は先ほど先に戻っていたはずだが、事態を察して戻ってきたらしい。
龍馬は俺の隣に座り込むと、何も言わずに懐から小さな酒瓶を取り出し、俺に差し出した。
「正直に言うたな。……それが、あんさんの選んだ戦い方か」
龍馬の問いに、俺は答えず酒を煽った。
喉を焼くアルコールが、沈みかけた理性を少しだけ持ち上げてくれる。
「……新選組の名を使えば、彼らは沈黙する。だが同時に、俺の存在も確実に敵に知れ渡る」
「せやな。これで、あんさんを狙う『掃除屋』たちにも、居場所がバレるで」
龍馬はニヤリと笑ったが、その目にはどこか哀愁が混じっていた。
「まあええわ。……沖田さん、あんさんが『新選組の沖田』として生きる道を選んだなら、わしも『坂本龍馬』として、最後まであんさんの背中を押したるわ」
新選組の剣士と、脱藩浪人。
名乗ってしまった以上、もう後戻りはできない。
俺たちは、朝が来る前にこの温泉地を立ち去らなければならない。
京へ戻るか、それともこのまま闇の中を走り続けるか。
俺の選んだ選択肢が、歴史をどちらへ転がすのか。その答えを探す旅が、いよいよ本格的に幕を開けようとしていた。




