第14話:湯煙の先にいた怪物
山々に囲まれたその湯治場は、京の喧騒が嘘のように静かだった。
硫黄の匂いが立ち込める露天風呂に浸かり、俺は長旅の疲れを湯に溶かしていた。
肺の痛みも、少しだけ和らいでいる。
ここは京から遠く離れた山中。
まさか、この隠れ湯で「あの男」と出会うことになるとは夢にも思わなかった。
湯煙の向こうから、大きな体躯の男がざぶざぶと歩いてくる。
無造作に結われた髪、日焼けした肌、そして何より、その瞳には底知れない開放感と、時代を俯瞰するような鋭い光が宿っていた。
「いやあ、ええ湯やなあ。こないな山奥に、こないな極楽があるとは知らなんだわ」
男は隣の岩場に豪快に腰を下ろすと、こちらをちらりと見て、人懐っこく笑った。
「あんさんも療養か? 顔色が、ちと悪いな」
「……ああ。少しばかり、肺を病んでいまして」
俺がそう答えると、男は「ほう」と感心したように頷いた。
その拍子に、男の腰に差してある刀が湯船の縁から見えた。
独特の鍔つばの造り。
そして、ただ者ではない佇まい。
俺の心拍数が跳ね上がる。
この時代に、この男と遭遇する確率など、ほぼゼロに等しいはずだ。
「俺は坂本。名は龍馬。土佐の脱藩浪人よ」
男は気負いなく自己紹介をした。坂本龍馬。
歴史の教科書で見た写真よりも、ずっと人間臭く、ずっと大きい。
「……沖田。……沖田総司です」
思わず本名を口にしてしまった。
龍馬は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに豪快に笑い声を上げた。
「沖田!? あの新選組の、一番隊組長か! 噂は聞いとるで、剣の天才ちゅうてな。へえ、こりゃあ驚いた。京の虎が、なんでまたこんな山奥で湯治なんぞしとるんや?」
龍馬は疑う様子もなく、ただ純粋な興味で俺を見ている。
彼の中に「新選組=敵」という殺気はない。
それがかえって、俺を混乱させた。
この男は、将来的に新選組と敵対する立場になるかもしれない男だ。
それなのに、今の彼は、俺の病気を案じて肩を叩こうとしている。
「……身体を壊して、逃げ出してきたところです。組織のしがらみも、暗殺の影からも離れて、今はただ、泥のように眠りたくて」
俺の言葉に、龍馬は深い含みのある表情で空を見上げた。
「逃げるか……。ええ言葉や。わしも最近、逃げてばかりやからな。――なあ、沖田さん。もしあんさんが新選組という看板を下ろして、ただの『一人の男』に戻れるとしたら、あんさんは何がしたい?」
湯煙が二人の間に漂う。龍馬の問いかけは、俺の核を射抜いていた。
この時代を生き延びた先にある、俺自身の未来。
それを考えたことなどなかった。
「……そうですね。美味しいものを食べて、ただ平穏に、朝を迎えたいですね」
俺の答えを聞いた龍馬は、満足そうに頷いた。
「ええなあ。それこそ、わしが目指しとる国のかたちや。……沖田さん、あんさんとは、京で会わん方がええかもしれんな。次に会うときは、敵同士やもしれん」
彼がそう言って笑ったとき、湯煙の奥で、歴史という巨大な歯車が音を立てて噛み合ったような気がした。
温泉地という極めて個人的な空間で出会った、敵対するはずの二人。
この出会いが、俺の生存戦略にどのような影を落とすのか。俺はまだ、知る由もなかった




