第13話 湯の町への逃避行
松本良順から手渡された琥珀色の薬は、飲むと肺の奥がじわりと熱くなる不思議なものだった。
確かに咳き込む回数は減った。
だが、根本的な疲労感は消えない。
「沖田君、屯所に留まるのはもう限界だ」
松本は畳の上に広げた古地図を指でなぞりながら、厳しい表情で告げた。
「君の身体に必要なのは薬だけじゃない。過酷な京の湿気、そして新選組の任務から一度完全に離れ、心身を『リセット』させる必要がある。……私の知る湯治場へ行け」
彼はそう言って、京からほど近い山間の温泉地の名を挙げた。
当時の常識でいえば、病人を動かすのはご法度だ。
しかし、現代の知識を持つ俺からすれば、適切な休養と温熱療法こそが、結核による衰弱を遅らせる有効な手段だと理解できた。
「温泉、ですか」
「そうだ。硫黄の香りは肺には刺激になるかもしれんが、君の今の血行不良と慢性的な炎症には、湯の効能が不可欠だ。……近藤局長には私から言っておく。これは『任務』だとな」
数日後、俺は土方歳三に見送られ、人目につかないよう町人姿で屯所を後にした。
土方は最後まで渋い顔をしていたが、俺の背中を見送る瞳には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「総司。……死ぬなよ」
短い言葉だったが、それが彼なりの精一杯の激励だった。
山道を揺られる籠の中で、俺は外の景色を眺めていた。
常に刀を握り、血の匂いと死の影に怯えていた日々から、ようやく離れられる。
温泉地へ向かう道中、俺は自分の胸に手を当ててみた。
かつての俺なら、ここで「任務放棄だ」と自分を責めていたかもしれない。だが、今は違う。
(生き延びるために休む。これもまた、歴史を改変するための重要な戦術なんだ)
湯煙の向こうには、きっと何かが待っている。
京の争乱から離れたその地で、俺は束の間の休息を得るのか、それとも温泉地という新たな舞台で、また別の歴史の歪みと出くわすことになるのか。
籠が大きく揺れる。
硫黄の匂いがわずかに風に乗って流れてきた。
俺は静かに目を閉じ、湯の町の風景を想像した。
この休息が、俺の身体をどれほど改善させてくれるのか、そして次に屯所に戻ったとき、俺を待っている未来はどう変わっているのか――。
これは、天才剣士の長い休暇であり、同時に「最強の生存者」になるための、密かな充電期間の始まりだった。




