第6話 時をかける胃痛
胃の中身が裏返るような浮遊感と、視神経を直接バーナーで焼かれるような閃光。 時空間転移というやつは、SF映画で見るほど優雅なものではなかった。
例えるなら、巨大な洗濯機の脱水モードに放り込まれ、一分間に三〇〇〇回転させられたハムスターの気分だ。世界の物理法則が一度バラバラに分解され、無理やり再構築される暴力的な感覚。
「おえぇぇ……」
転送が完了した瞬間、私は地面に四つん這いになり、派手にえずいた。 幸い、来る前に胃薬しか飲んでいなかったため、最悪の事態は免れたが、胃酸の酸っぱい味が口いっぱいに広がる。
目を開けると、そこはぬかるんだ地面だった。 黒く湿った土。踏みつけられた雑草。そして、強烈な「臭気」が鼻孔を突いた。
「うっ……くさ……っ!」
思わずハンカチで鼻を押さえる。 それは、腐葉土と、濃密な緑の匂いと、そして紛れもない獣の排泄物の匂いが混じり合った、強烈に生々しい「生の悪臭」だった。
さらに、肌にまとわりつくような湿気と熱気。 空調管理システムによって一年中快適な温度に保たれている二三〇〇年のネオ・トウキョウとは、空気の密度そのものが違う。酸素が濃すぎて、呼吸するだけで肺が焼けそうだ。
『System Check... All Green. 座標誤差〇・〇〇二。着地成功だ、兄弟』
頭蓋骨に直接響くような、能天気な電子音声。 私の脳内に埋め込まれた通信チップから、現代(未来)にいるgennaiの声が聞こえた。
『どうだい、一七〇〇年前の日本の空気は? マイナスイオンたっぷりで健康に良さそうだろ?』
「……最悪です。牧場と公衆便所を足して二で割ったような匂いがします」
私は涙目で立ち上がり、泥だらけになった膝を払った。
「それに、なんだか体が重い。重力が違うんですか?」
『重力は一緒さ。ただ、あんたみたいなヒョロガリ未来人が、舗装されてねえ地面を歩くのに慣れてねえだけだ』
私は周囲を見渡した。 鬱蒼とした原生林に囲まれた盆地。遠くには、なだらかな稜線を描く大和三山が見える。空は抜けるように青く、雲は驚くほど立体的だ。
眼下には、わらぶき屋根の掘っ立て小屋のような質素な建物が密集する集落と、建設中の巨大な寺院――おそらく飛鳥寺だろう――の骨組みが見える。
ここが、西暦六〇三年。 推古天皇一一年の大和国、飛鳥。 日本の歴史が動き出す、夜明け前の場所だ。
私の格好は、gennaiが用意した「当時の服」だ。麻で作られた粗末な貫頭衣に、腰紐を巻いただけの簡素なもの。どう見ても下級官人か、ただの農民にしか見えない。 一方で、私の隣に立つ「彼」は違った。
『ふむ。ここが極東の島国、ヤマトか。データ通り、インフラ整備率は著しく低いな』
泥濘の中にありながら、泥一滴跳ねていない純白の姿。 当時の朝廷服である「袍」を模しているが、その素材は最高級のナノファイバーシルクのように艶やかで、太陽光を反射して神々しく輝いている。
頭には、通信アンテナと演算ユニットを内蔵した、黒漆塗りの烏帽子。 手には、白銀に輝く笏――高周波振動デバイス【調和の杖】が握られている。
歴史修正用アンドロイド、コードネーム『PRINCE』。 我らが聖徳太子(PRINCE)は、泥だらけの地面に革靴(に見えるタクティカルブーツ)で仁王立ちし、あからさまに不快そうな顔で周囲をスキャンしていた。
「あー、PRINCEさん。ちょっとよろしいですか」
『なんだ、ナラティブ担当』
「その格好、ちょっと目立ちすぎじゃありませんか? いくらなんでも白すぎるというか、発光してるというか……」
『問題ない』
PRINCEは私の懸念を一蹴した。
『大衆を導く指導者は、常に視覚的に際立っていなければならない。これこそが「カリスマ」の初期設定である』
そう言うと、彼は懐から手鏡を取り出し、烏帽子の角度をミリ単位で調整した。 ナルシストだ。この聖徳太子、とてつもないナルシストだ。
『行くぞ、申述かたる。ジェネレーターの反応によれば、あちらの不衛生な建物群が、この国の政治中枢……小墾田宮であるらしい』
「ちょ、待ってください! 勝手に行かないで!」
PRINCEはスタスタと歩き出した。ぬかるんだ地面など物ともしない、モーター駆動の安定した歩行だ。私は慌てて、サンダルのような草履でその後を追った。




