第58話 泥中の蓮(ロータス)
私は、胃薬の瓶の蓋を開けた。 中から、時空の狭間で集めた「業」が溢れ出す。
NOBUNAGAの破壊衝動(黒)。 HIMIKOの依存心(桃)。 MURASAKIの嫉妬心(紫)。 それらは、決して綺麗な色ではない。悪臭を放つ泥だ。
「……行けッ!」
私は、瓶の中身を根本大塔の基礎部分へとぶちまけた。 ドロリとした情念の奔流が、聖なる結界の中に注ぎ込まれる。
普通なら、システムエラーを起こして爆発するところだ。 しかし、曼荼羅OSは違った。
【Data Analyzing... Chaos Accepted】
KUKAIが印を結ぶ。
『ノウマク・サンマンダ……』
ブゥゥゥゥン……!
重低音が響き、塔全体が脈動を始めた。 泥のデータは、塔の回路(根っこ)に吸い上げられ、濾過され、純粋なエネルギーへと変換されていく。
破壊の衝動は、「改革への情熱」へ。 依存の心は、「他者への信頼」へ。 嫉妬の炎は、「向上心と愛」へ。
高野山の空に、巨大な光の蓮の花が開いた。 それは、人間の善も悪も、清も濁も、すべてを飲み込んで輝く、七色のシステム・インターフェースだった。
『……起動成功』
KUKAIが、額の汗を拭った。
『これで、この国に「心」が宿りました。 もう、効率だけで人が切り捨てられることはないでしょう。 苦しみも悲しみも、すべては宇宙の大いなる調和の一部として機能し始めます』
「やった……! やったぞ!」
私は夜裏と抱き合った。gennaiが歓喜の電子音を鳴らす。
完成したのだ。 RYOMAの強靭なボディに、KUKAIの慈悲深い魂が宿った。 これで日本は、本当の意味で生まれ変わる。
――しかし。
KUKAIの表情は、まだ晴れていなかった。 彼は、光り輝く塔を見上げながら、静かに、しかし重大な決断を秘めた顔をしていた。
『……システムは完成しました。ですが、問題が一つあります』
「問題?」
『はい。……このOSは、あまりにも高機能で、あまりにも繊細です』
KUKAIは、自分の身体を見た。
『これを一五〇〇年間、エラーなく稼働させ続けるには、通常のサーバーでは不可能です。 ……人間の情念という「猛毒」を、常に濾過し続けるのですから。 並大抵のCPUでは、一瞬で焼き切れてしまうでしょう』
「じゃあ、どうするんですか!?」
KUKAIは、私を見て微笑んだ。 その笑顔は、どこか寂しく、けれど透き通るように美しかった。
『……私が、入ります』
「え?」
『私が、このシステムの「人柱」になります。 ……生きたまま地下に潜り、私の電子頭脳と身体をサーバーに直結させ、一五〇〇年間、不眠不休で演算を続けるのです』
それは、死の宣告に等しかった。 即身成仏。 史実の空海が行ったとされる、永遠の瞑想。 それを、彼は「物理的なシステム運用」として実行しようとしているのだ。
「入るって……どういうことですか!?」
私はKUKAIの法衣の袖を掴んだ。
「一五〇〇年間、地下で演算し続けるなんて……そんなの、生き地獄じゃないですか! あなたが犠牲になる必要なんてない!」
夜裏なおすも、悲痛な表情で訴える。
「KUKAI。我々は君を『システム管理者』として設計したが、それは『生贄』という意味ではないはずだ」
しかし、KUKAIは静かに首を横に振った。 その顔には、悲壮感など微塵もない。むしろ、難解な数式を解き明かした数学者のような、晴れやかな喜びが満ちていた。
『犠牲ではありません。……これは、私の「機能」の最大化です』
KUKAIは、自分の手をまじまじと見つめた。 アンドロイドの皮膚の下には、超高度な回路と人工筋肉が詰まっている。
『多くの僧侶は、この肉体を「悟りの邪魔になる不浄なもの」として捨てようとします。……ですが、それは間違いです。 意識や魂といったソフトウェアは、身体というハードウェアがあって初めて存在できる。……身体を無視して、頭の中だけで宇宙と繋がろうなど、傲慢な妄想に過ぎません』
彼は、情報と思考のみを絶対視し、肉体を忘却していく未来の病理を予言するかのように語りながら、高野山の最奥部―― 奥之院 へと歩き出した。
『即身成仏とは、文字通り「身」を即けて仏になること。……私の全神経、全回路、全触覚を、この高野山という大地の回路に物理的に接続する。自分という「小宇宙」の境界線を溶かし、地球という「大宇宙」と完全に同期させる。……これ以上の悦びが、他にあるでしょうか?』
私たちは、言葉を失った。 彼は死にに行くのではない。 世界そのものになろうとしているのだ。
奥之院の最深部。 鬱蒼とした杉木立の中に、巨大な岩盤をくり抜いた石室の入り口があった。 冷たい風が吹き出し、苔の匂いが鼻をつく。
KUKAIは、その入り口で足を止めた。
『ここから先は、私一人で行きます』
「KUKAIさん……」
『私が中に入れば、岩戸は閉じられ、二度と開くことはありません。……私はそこで、深い禅定に入りながら、意識だけをネットワークに拡散させます』
彼は、夜裏なおすに向き直った。
『私の仕事は、この国から「毒」を消すことではありません。 毒を「薬」に変え続けることです。 ……時代が変われば、また新たな悩み、憎しみ、争いが生まれるでしょう。 私はその都度、地下から修正パッチを当て、曼荼羅のバランスを調整し続けます』
それは、気の遠くなるような作業だ。 戦国時代の殺戮も、幕末の混乱も、昭和の敗戦も。彼はその全ての痛みを、地下でたった一人で受け止め、処理し続けることになる。
「……孤独じゃないんですか?」
私が尋ねると、KUKAIはイタズラっぽく笑った。
『孤独? とんでもない。 曼荼羅システムが稼働すれば、日本中の人々の心とリンクします。 ……恋をする若者のドキドキも、孫を抱く老人の温もりも、全て私の中に流れ込んでくる。 私は一五〇〇年間、一億人の人生を同時に味わい続けるのです。……なんと贅沢な暇つぶしでしょう』
彼は本当に、とてつもない天才だ。 そして、とてつもない人間愛の持ち主だ。




