第59話 調和(ハーモニー)の国
KUKAIは、私に向き直った。 そして、持っていた法具・三鈷杵を、私に手渡した。
「えっ? これは……」
『それは、システムの「管理者権限」ではありません。 ……ただの「お守り」です』
KUKAIは、私の手を両手で包み込んだ。 温かかった。 アンドロイドのはずなのに、そこには確かな体温があった。
『かたる君。……システムに頼りすぎてはいけません。 私が提供するのは「土壌」だけです。 そこでどんな花を咲かせるか、どんな物語を紡ぐかは……地上に生きるあなたたちの自由です』
彼は、編集長のフラクタル理論の核心を、最後に告げた。
『忘れないでください。 世界を変えようと気負う必要はありません。 ただ、あなた自身が幸せでいてください。 あなたが笑えば、隣の人が笑う。その連鎖が、やがて銀河まで届くのです。 ……まずは、あなた自身を整えなさい』
「……はい。はいっ……!」
涙が止まらなかった。 目の前にいるのは、ただのAIじゃない。 私たちを導いてくれる、偉大な師だ。
『では、行ってまいります。 ……未来で、美しい花が咲くのを楽しみにしていますよ』
KUKAIは踵を返し、暗い石室の中へと歩き出した。 その背中は、一度も振り返らなかった。
ズズズズズ……。
重い岩戸が、音を立てて閉じていく。 光が遮断され、彼の姿が闇に飲まれていく。
ダンッ。
岩戸が完全に閉じた。 静寂が戻った。 ただ、風の音と、鳥のさえずりだけが聞こえる。
しかし、私の耳には聞こえた。 地下深くから、ブゥゥゥン……という低い唸り音が。 それは、巨大なサーバーが起動し、この国のOSが動き始めた産声だった。
私たちは、イロハマルに戻り、現代への帰還プロセスを開始した。 窓の外を、歴史が高速で流れていく。
――平安の貴族社会。 華やかさの裏で、人々は「あはれ」という感情を知り、物語を紡いだ。
――鎌倉・室町の武家社会。 血で血を洗う戦乱の中でも、人々は「茶の湯」や「禅」という精神的支柱を見つけた。
――江戸の泰平。 町人文化が花開き、笑いと人情が溢れた。
どんな時代にも、危機はあった。 しかし、日本という国は、決して決定的な崩壊には至らなかった。 ギリギリのところで踏みとどまり、再生し、文化を継承してきた。
「……守ってくれているんだ」
私は確信した。 地下深くで、KUKAIが演算し続けてくれている。 人間の愚かさ(泥)を吸い上げ、それを文化(蓮)に変えるシステムが、脈々と稼働しているのだ。
そして、時代は明治へ。 RYOMAの作った「株式会社日本」の歴史と合流する。 本来なら、ここで「効率至上主義」の暴走が始まり、魂のない世界になるはずだった。
だが、今の歴史にはKUKAIがいる。 RYOMAの「経済」というハードウェアに、KUKAIの「調和」というソフトウェアがインストールされる。
カッ!!
まばゆい光が視界を覆った。 すべての修正が完了し、私たちは「完成された2300年」へと帰還した。
光の粒子が収まり、私たちは2300年の総理官邸に戻っていた。
「……戻ったのか」
私は、恐る恐る窓に近づいた。 旅立つ前、この窓から見た世界は「魂のない黄金の国」だった。 RYOMAの経済効率だけが支配し、人々がロボットのように歩く、冷たいディストピアだった。
今は、どうだ?
私は窓の外を見下ろし、涙が溢れそうになった。
黄金の摩天楼はそのままに、その壁面には豊かな緑が茂り、ビルとビルの間を縫うように、桜並木や小川が流れている。 最先端のテクノロジーと、古き良き日本の自然が、完璧に融合している。
そして、何より人々が変わっていた。
路上で、重そうな荷物を持ったお年寄りがいた。 すると、近くを歩いていたビジネスマンが、スマートウォッチの「効率スコア」など見向きもせず、自然に荷物を持ってあげていた。 二人は笑顔で会話を交わし、お辞儀をして別れた。
効率ではない。 損得でもない。 ただ、そこに「心」があるから動く。
「……成功だ」
夜裏なおすが、震える声で呟いた。
「見ろ、かたる君。……誰も管理されていない。誰も強制されていない。なのに、街全体が音楽を奏でるように調和している」
KUKAIが説いた 「フラクタル・システム」 が稼働しているのだ。 一人ひとりが自分を大切にし、心に余裕があるからこそ、他人にも優しくなれる。 その小さな波紋が、ネオ・トウキョウ全体を包む巨大な「優しさのフィールド」を作っている。
Ryomaが作った「最強の経済基盤」の上で、KUKAIが作った「最高の精神性」が踊っている。 これぞ、【JAPAN Ver.2.0】。 強く、豊かで、そして温かい国。
『へへっ、見てみろよ兄弟』
gennaiのモニターが、嬉しそうに点滅した。
『街中のシステム・エラーが消えてやがる。……地下のKUKAIの旦那が、物凄い速度で「悪意」を濾過してくれてるおかげだ』
私は、遠く南の空――高野山の方角を見つめた。 今もあそこで、彼はたった一人、岩戸の中で演算を続けている。 私たちの平穏な日常は、彼の永遠の献身によって支えられているのだ。
「ありがとう、KUKAIさん……。ありがとう、RYOMAさん……」




