第54話 美しい死体
プシューッ……。
カプセルから溢れ出した白い蒸気が、黄金色に輝く執務室の空気を冷やしていく。 その霧の向こうで、静かに閉じていた瞳が、ゆっくりと開かれた。
その瞳には、感情の色がなかった。 しかし、冷酷なのではない。あらゆる事象を透過し、その本質だけを見抜く、澄み切った鏡のような瞳だった。
『……呼びましたか』
透き通るような声。 現れたのは、質素な法衣をまとった若い僧侶型アンドロイド。 彼は、カプセルから一歩踏み出すと、まず私や夜裏ではなく、窓の外に広がる「完璧なネオ・トウキョウ」へと視線を向けた。
そこには、RYOMAの遺した「論理」によって統制された、超効率的な社会がある。 富に満ち、争いがなく、誰もが機械のように正確に生きる世界。 しかし、誰も笑わず、誰も泣かない、魂の抜け落ちた世界。
KUKAIは、その光景を一瞥し、静かに告げた。
『……美しい死体ですね』
「え……?」
私が息を呑むと、彼は振り返り、穏やかに続けた。
『RYOMA殿は、素晴らしい「身体」を作られた。傷一つなく、病もなく、強靭な肉体だ。……ですが、脈打っていない。体温がない』
彼は、自らの胸にそっと手を当てた。
『効率だけを突き詰めれば、生命は死にます。「無駄」や「ノイズ」を排除しすぎたシステムは、もはや生物ではなく、ただの機械です。……今のこの国は、コンクリートで固められた無菌室のようなもの。清潔ですが、そこでは新しい命は生まれません』
「その通りです……!」
私はKUKAIに歩み寄った。
「RYOMAさんは、最後に自分の『心』を削除してまで、この国を救いました。……でも、そのせいで日本人は『心』を失ってしまった。……KUKAIさん、お願いです。この国に、魂を取り戻してください!」
KUKAIは、深く頷いた。
『承知しました。……身体があるなら、そこに精神(OS)を宿せばいい。健全な身体と、健全な精神。この二つが揃って初めて、宇宙(国)は完成するのです』
KUKAIは、空中に指を走らせた。 光の粒子が、複雑な幾何学模様を描き出す。それは魔法陣ではなく、この宇宙の構造を示す 「フラクタル数式」 だった。
『世界は自己相似です。細胞が人間を作り、人間が地球を作る。……個の充実なしに、全体の幸福はありません』
彼は、窓の外のロボットのような人々を指差した。
『今の彼らは、「全体」というシステムを維持するための部品にされています。……私がこれから構築するのは、その主従を逆転させるシステム。一人ひとりが「自分という小宇宙」を大切にすることで、結果として世界が整う……自律分散型の調和システム。名付けて、【曼荼羅OS】』
「曼荼羅……OS?」
『はい。ですが、この清潔すぎる現代には、そのOSを作る材料がありません』
KUKAIの瞳が、鋭い探究者の光を帯びた。
『森へ行きましょう。……腐葉土があり、虫が這い回り、死と再生が入り混じる、生命の源流へ。……そこにある「泥」こそが、曼荼羅を咲かせるための養分なのです』
「森って……どこですか?」
私が尋ねると、夜裏がコンソールを操作した。
「時代座標、設定完了。……西暦八〇四年(延暦二十三年)。KUKAI、君が生きた時代だ」
『ええ。……平安という名の、最もカオスで、最も人間臭い時代へ』
転送の光が収束する。 私たちは、一五〇〇年前の日本に降り立った。
その瞬間、強烈な臭気が鼻をついた。 現代の無機質な空気とは違う。土と、獣と、排泄物と、そして濃密な草いきれが混ざり合った、強烈な「生」の匂いだ。
「うっ……これは……」
私は思わず鼻を覆った。
そこは、作りかけの都――平安京だった。 朱塗りの門は美しいが、一歩路地に入れば泥濘が広がり、浮浪者がたむろしている。 夜の闇は深く、そこかしこから怪しげな祈祷の声や、苦しむ病人のうめき声が聞こえてくる。
「ひどい衛生状態だ」
夜裏が顔をしかめる。
「疫病、飢饉、そして政治的陰謀。……人々は常に『死』と隣り合わせだ。だからこそ、目に見えない『怨霊』や『呪い』を本気で信じ、怯えている」
論理が通じない世界。 効率など欠片もない、非合理と恐怖が支配するカオスな時代。
しかし、KUKAIは目を細め、その混沌とした空気を深く吸い込んだ。
『……良い匂いだ』
「えっ? く、臭いですよ?」
『いいえ、かたる君。これは「腐葉土」の匂いです』
KUKAIは、道端の泥の中に咲く、小さな名もなき花を指差した。
『見てみなさい。腐った土の中から、こうして命が生まれている。……現代のコンクリートジャングルにはない、圧倒的な「生命の循環」がここにはある』
彼は、怯える人々や、闇に蠢く気配さえも、慈しむように見つめた。
『この時代は、未開の森です。腐敗し、食い合い、しかし根っこで全てが繋がっている。……現代人は、この「繋がり」を断ち切り、個室に閉じこもってしまったから、息苦しいのです』
それは、毒も蟲も等しく抱え込む、深く豊かな森の死生観だった。清浄なものだけが良いわけではない。汚れも、闇も、死さえも、すべては巨大な生命システムの一部なのだ。
『私は、この「森の力」をシステム化します』
KUKAIは、西の空を見上げた。
『私は唐へ渡ります。長安という国際都市で、このカオスを高度な論理として体系化するための最新テクノロジー――「密教」のソースコードを手に入れてきます』
「僕たちも同行します!」
私が言うと、KUKAIは首を横に振った。
『いいえ。貴方たちには、もっと重要な任務があります』
彼は、私の胸ポケット――RYOMAが心を削除した時に空っぽになってしまった胃薬の瓶を指差した。
『私は「設計図」を持ち帰ります。……ですが、そのシステムを動かすための「燃料」が必要です』
「燃料?」
『はい。……人間が人間であるための証明データ。喜び、悲しみ、怒り、絶望……そして愛。それら全ての「不完全な欠片」を集めてきてください』
KUKAIの瞳が、真剣な光を帯びた。 それは、愚かで不完全な人間の営みを丸ごと愛する、偉大な物語作家の眼差しだった。
『完璧なシステムを作るには、完璧なデータだけではダメなのです。……善人だけの物語がつまらないように、光だけの世界もまた、嘘偽りです。……行ってください、時空の狭間へ。そして拾ってきてください。人間たちの、愛すべきガラクタを』




