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第34話 春はあけぼの

「……はぁ、はぁ、はぁ……」


MURASAKIは、部屋の中央で膝をついていた。 扇子は光を失い、彼女の手から滑り落ちた。 全身汗だくで、顔色は紙のように白い。だが、その表情は晴れやかだった。


「やりましたね……」 


私が駆け寄ると、彼女は力なく笑った。


『……書ききったわ。五四帖。……長かった』


「最高でした。あなたの書く文字一つ一つが、僕の魂も震わせました」


『ふん。お世辞がうまいのね、編集者さん』 


彼女は私の手を借りて、よろよろと立ち上がった。 そして、破れた障子の隙間を見た。


外が、白み始めていた。 東の空が、紫色に染まっていく。 山際が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいている。


『……見て。春はあけぼの』 


MURASAKIが呟いた。


『……やっぱ、悪くないかもね。この景色』


「ええ。とても綺麗です」 


私は頷いた。


「清少納言も言ってますけど、やっぱりこの時間はエモいですね」


『あんな女と一緒にしないでよ。……でも、まあ、認めてあげなくもないわ』


彼女は深呼吸をした。 その空気は、もうカビ臭くなかった。雨上がりのような、澄んだ朝の匂いがした。 都を覆っていた「怨霊ウイルス」は、彼女の物語によって完全に浄化されたのだ。


「……MURASAKI」 


夜裏なおすが、瓦礫の陰から出てきた。彼もまた、衣服が焦げ、ボロボロになっていたが、満足げに頷いた。


「見事だ。君の『毒』は、確かに都を救った薬となったようだ」


『勘違いしないでよね』 


彼女はツンと顔を背けた。


『私はただ、自分の腹の中にあるムカムカを吐き出しただけ。……世界平和なんて、ついでよ』


そう言いながらも、彼女は私の方を見て、小さくウィンクした。


『……でも、サンキュ。あんたがいなかったら、途中で投げてたかも』


私は胸が熱くなった。 憧れの作家に、最高の物語を書かせることができた。 編集者ファン冥利に尽きる瞬間だ。


「さあ、帰ろうか」 


夜裏が転送装置を起動する。


「君の物語は、この時代に深く根付いた。これで未来の日本人は、感情を言語化し、客観視する『教養』を手に入れたはずだ」


「はい!」


光が私たちを包む。 薄れゆく平安京の朝焼けの中で、MURASAKIはずっと手を振っていた。 陰キャで、毒舌で、そして誰よりも人間臭い、最高の文学少女。さようなら、紫式部。 あなたの物語は、1000年後の僕たちも救い続けているよ。


転送の光が収束する。 私は、平安の朝焼けの余韻に浸りながら、ゆっくりと目を開けた。


「……ふぅ。今度こそ、まともな世界に戻ったと信じたいですね」


そこは、いつもの総理官邸の執務室だった。 前回の「パステルカラーの占い館」のようなファンシーさは消えていた。 銃弾の跡もない。 代わりに、部屋全体が 「図書館」 のように静まり返っていた。


壁一面に本棚が設置され、難解な哲学書や文学全集がびっしりと並んでいる。 空気中には、古書とコーヒー、そして高級なインクの匂いが漂っていた。 照明は落ち着いた暖色系で、知的な雰囲気を醸し出している。


「……悪くない」 


私は眼鏡の位置を直した。 読書家としては、この落ち着いた空間は好ましい。前回までの「暴力」や「カルト」に比べれば、天国のような環境だ。


夜裏なおすは、マホガニーの重厚なデスクに座り、万年筆で何かを書いていた。 しかし、その表情は優れない。眉間に深い皺を寄せ、まるで世界の終わりについて思索しているような顔だ。


「総理、どうしたんですか? そんな難しい顔をして」


「……静かすぎるのだ」 


夜裏はペンを置いた。


「見てみろ、外を」


私は防弾ガラス(今はスモークがかかったシックな仕様だ)越しに、ネオ・トウキョウを見下ろした。 そして、違和感を覚えた。


街は、動いていなかった。 いや、人はいる。エアカーも飛んでいる。 だが、すべてがスローモーションのように遅いのだ。 交差点では、人々が立ち止まり、何やら話し込んでいる。車もクラクションを鳴らさず、譲り合い……いや、お見合い状態で停滞している。


「みんな、何をしてるんですか? まさかまた、HIMIKOの占い待ち?」


「いいや。もっと厄介なことになっている」


 夜裏がリモコンを操作し、壁面の大型モニターを起動した。


「国会中継を見てみたまえ。今のこの国の『意思決定プロセス』がよく分かるはずだ」


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