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第30話 深夜の局(つぼね)と担当編集の流儀

うし三つ時。 平安京は深い闇と静寂に包まれていた。 だが、中宮彰子のつぼね、その一室だけは、異様な熱気――というよりは、腐敗臭に近い生活臭が漂っていた。


「……まずは、片付けましょう。環境が心を決めますから」


私は、部屋に散乱するゴミの山と格闘していた。 書き損じの和紙を拾い、腐りかけた果物を片付け、ひっくり返ったすずりを元に戻す。 


夜裏なおすは「私は外で見張っている。メンヘラの相手は専門外だ」と言って、廊下へ退避してしまった。薄情な上司だ。


『……ねえ。何なの、あんた』


MURASAKIは、部屋の隅で膝を抱えたまま、ジト目で私を見ていた。


『道長の命令でもないのに、なんでそんなに必死なわけ? 私が書こうが書くまいが、あんたには関係ないでしょ』


「関係ありますよ」 


私は散らばった巻物を丁寧に巻き直しながら答えた。


「僕は、あなたの作品のファンですから。ファンにとって、推しの作家が筆を折る瞬間を見るのは、自分が死ぬより辛いんです」


『……重い。キモい』 


彼女は顔をしかめたが、その表情には、どこか興味深そうな色が混じっていた。


『さっき言ってたわよね。私の物語の「暗い部分」が好きだって。……あんたみたいな真面目そうな男に、女の絶望なんて分かるわけないじゃない』


「わかりますよ」 


私は手を止めた。 部屋の灯り――燭台の揺らめく炎と、未来のLEDランタンの冷たい光が混ざり合う中で、私は静かに口を開いた。


「僕も……教室せかいの隅っこにいた人間ですから」


 私は、誰にも話したことのない、そして夜裏なおすすら知らない「傷」を開示した。


「子供の頃、僕はうまく笑えない子供でした。周りの空気が読めなくて、いつも浮いていて……気づけば、クラスのサンドバッグになっていました」


脳裏に蘇る、乾いた笑い声。冷たい床の感触。 机の中に詰め込まれたゴミ。上履きに書かれた「死ね」の文字。


「辛かった。学校に行きたくなかった。毎朝、胃が痛くて、吐き気がして……。でも、親にも先生にも言えなかった。『いじめられている自分』を認めるのが、惨めで、恥ずかしかったから」


『……恥』 


MURASAKIが小さく呟く。


「ええ。太宰治は『人間失格』でこう書きました。 『恥の多い生涯を送って来ました』 と。……初めてその一行を読んだ時、僕は雷に打たれた気がしました。ああ、ここにもいたんだって。時代も場所も違うけど、僕と同じように、息をするだけで恥ずかしいと感じている人間が、ここにもいたんだって」


私は懐から、空っぽになった胃薬の瓶を取り出し、弄んだ。


「それから僕は、本にのめり込みました。一〇〇〇冊、読み漁りました。夏目漱石の『こころ』で、先生のエゴイズムと孤独に震えました。カフカの『変身』で、家族にすら疎まれる理不尽さに共感しました」


MURASAKIは黙って聞いている。布団から少しだけ顔を出して、真剣な眼差しで私を見つめている。


「周りの奴らは言いました。『現実に居場所がないから、物語に逃げてるんだ』って。……でも、違うんです」


私は顔を上げ、MURASAKIの目を真っ直ぐに見た。


「物語は、逃げ場所なんかじゃなかった。 『武器』 だったんです」


『武器……?』


「そうです。登場人物たちが、理不尽な運命に悩み、苦しみ、それでも足掻く姿を見て、僕は勇気をもらいました。僕のこの苦しみは、無駄じゃない。文学になるんだって。……物語という武器があったから、僕はあの地獄のような教室で、今日まで生き延びることができたんです!」


熱くなってしまった。 オタク特有の語りだ。引かれたかもしれない。 だが、MURASAKIは引かなかった。 彼女は、布団からゆっくりと這い出し、私の目の前に座った。


『……あんた、いい目をしてるわね』


彼女は扇子で私の顎をくいっと持ち上げた。


『腐ってる。よどんでる。……でも、底の方で燃えてる』


「褒め言葉として受け取っておきます」


『私の時代にもいるわよ。そういう、教室の隅っこみたいな場所。……宮中なんて、そんな場所の集合体だわ』 


MURASAKIは自嘲気味に笑った。


『みんな笑顔で和歌を詠み合ってるけど、腹の中は嫉妬と軽蔑で煮えくり返ってる。「あの子の着物の色はダサい」とか「あの男は出世しない」とか……。私は、そんな空気の中にいるだけで、息が詰まって死にそうになる』


「わかります。だから、書くんですよね?」


『そう。書くことでしか、吐き出せないから。……ねえ、かたる。あんたの知ってる未来の物語で、私にオススメはある?』


「ありますよ」


私は即答した。


「手塚治虫という作家が描いた 『火の鳥』 という物語です」


『ヒノトリ?』


「ええ。太宰や漱石が個人の苦悩を描いたなら、この作品は『生命そのもののカルマ』を描いています」 


私はページをめくり、ある男の叫びを見せた。


「見てください。この『鳳凰編』の主人公・我王がおうを。彼は隻眼隻腕の盗賊として差別され、人を殺め続けました。でも、彼は叫ぶんです」


『……「おれはいつまでも、ケダモノのままでいたくねえ! まともな人間になりてえんだ!」……』 


MURASAKIが読み上げる。その声が震えた。


「彼は仏像を彫ることで、獣から人間になろうと足掻いた。……あなたと同じです。宮中のドロドロとした人間関係の中で、それでも『源氏物語』を書くことで、あなたは自分を保とうとしている」


『……』 


MURASAKIの瞳が揺れる。 私はさらにページをめくった。


「HIMIKOの世界では、みんなが思考停止して『安らぎ』を得ていました。でも、この火の鳥はこう言っています」


『人間は、死なないようになることが幸福ではないのです。生きているあいだに、自分の生きがいをみつけ、それを実行するのが幸福なのです』


「……!」 


MURASAKIが息を呑んだ。


「永遠の安らぎなんて、死んでいるのと同じだ。悩み、苦しみ、嫉妬し、それでも何かを表現して生きる。……それこそが、あなたが愛する『人間』でしょう?」


『……悔しいわね』 


彼女の目が、妖しく輝き始めた。口元に、好戦的な笑みが戻る。


『一〇〇〇年後の未来にも、こんなに私の気持ち(バイブス)を分かってる作家がいるなんて』


「だから……書きましょう、MURASAKIさん」


私は、床に落ちていた彼女のホログラム扇子を拾い上げ、差し出した。


「綺麗な嘘なんていらない。あなたの目に見えている、ドロドロとした人間の本性を、そのまま叩きつけてください。それが、道長の言う『怨霊』を祓う、唯一の呪文コードになるはずです」


 彼女は扇子を受け取った。 その瞬間、パチッという音と共に、彼女の纏う空気が変わった。


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