第27話 いとあやしき平安京
転送の光が収束し、視界が晴れた瞬間、私の平衡感覚は再び揺さぶられた。 だが、それはPRINCEの時の泥臭さとも、USHIWAKAの時の硝煙とも、HIMIKOの時の湿気とも違う。 もっと重く、粘り気のある……そう、「夜」そのものの重圧だった。
「……暗い」
私は思わず息を潜めた。 現代の東京の夜とは違う。街灯もネオンもない、真の闇。 その暗闇の底から、湿った土の匂い、古い建物のカビ臭さ、そしてそれらを覆い隠そうとする濃厚な白檀と丁子の香りが、鼻孔にねっとりと絡みついてくる。
目が慣れてくると、闇の中にぼんやりと朱塗りの柱と、幾重にも重なる檜皮葺の屋根が浮かび上がってきた。 私たちは、長い渡り廊下のような場所に立っていた。
『System Check... 座標固定完了。西暦一〇〇八年。平安京、内裏。……通称、魔窟だ』
gennaiの声には、いつもの陽気さがなく、どこか緊張したノイズが混じっていた。
『気をつけな、兄弟。ここには「目に見えねえウイルス」が蔓延してやがる。深呼吸すると、肺が腐るぜ』
「脅かさないでくださいよ……」
私は震えながら周囲を見渡した。 教科書で見るような、雅で煌びやかな世界を想像していたが、現実は違った。 そこにあるのは、息が詰まるような閉塞感だ。 建物の影、庭の茂み、御簾の奥。至る所に「何か」が潜んでいるような、じっとりとした視線を感じる。
「ヒュー……ドロドロ……」
どこからともなく、風の音とも呻き声ともつかない音が聞こえた。
「ひぃっ! い、今、完全にお化けが出る時の効果音がしませんでした!?」
私は夜裏なおすの背中にしがみついた。文学オタクとして怪談話は好きだが、実体験するのは御免だ。胃がキュッと縮み上がる。
「風の音だ。あるいは、貴族たちの『溜息』が共鳴しているのかもしれん」
夜裏は懐中電灯(未来の指向性ライト)を点け、廊下を照らした。 光の先には、朽ちかけた壁や、手入れのされていない庭木が映し出される。かつての栄華を誇った都も、今はどこか退廃的な空気に包まれているようだ。
「この時代の人間は、極度のストレス社会に生きている」
夜裏が淡々と解説しながら歩き出す。
「出世競争、恋愛の駆け引き、そして呪詛。……負の感情が空気中に充満し、集団幻覚や幻聴を引き起こすことすらある。精神衛生上、最悪の環境だ」
その時。 廊下の向こうから、衣擦れの音と共に、数人の男たちが歩いてきた。 狩衣を着た貴族たちだ。だが、彼らの様子がおかしい。 顔色は土のように青白く、目の下にはどす黒い隈を作っている。そして、誰もがお互いに目を合わせず、ブツブツと何かを呟き続けている。
「……あやつ、また昇進しやがった。許せぬ」
「呪ってやる……髪の毛を手に入れた……五寸釘を……」
「今夜の歌合、絶対に負けられぬ……負ければ末代までの恥……」
彼らは私たちに気づくことなく(gennaiの認識阻害フィールドのおかげだ)、幽霊の行列のように通り過ぎていった。 すれ違いざま、彼らの口から吐き出される言葉が、物理的な「黒い霧」となって漂っているように見えた。
「……なんですか、あれ」
私はハンカチで口元を押さえた。
「ゾンビですか? それとも病気?」
「彼らは『歌』と『噂』で戦う戦士だ」
夜裏が冷ややかに言った。
「この時代の出世は、実務能力よりも『和歌のセンス』と『家柄』、そして『空気を読む力』で決まる。一度の失言、一首の駄作で人生が終わるのだ。SNSの炎上など可愛く見えるほどの、超・相互監視社会だよ」
私はゾッとした。 HIMIKOの時代の「考えるのをやめた依存社会」とは真逆だ。 ここでは全員が「考えすぎている」。 他人の評価、和歌の裏の意味、袖の色の合わせ方……それら些末な記号を読み解くことに全神経をすり減らし、精神を病んでいるのだ。
「ターゲットは近い。行くぞ」
夜裏が指差したのは、内裏の奥深く、特に陰鬱な空気が漂う一角。 中宮・彰子に仕える女房たちの部屋――「局」だ。




