第7話〜ジュニアゴルフ技能検定会〜
検定会当日は、雲ひとつない青空だった。
七瀬家は朝七時に家を出て、会場である福岡市郊外のゴルフ場へ向かった。車内では珍しく弥々魅も静かで、窓の外を流れる景色をじっと見つめている。膝の上には、水色のラインが入った新しいグローブ。
「緊張してる?」
助手席から美沙が声をかけると、弥々魅は少し考えてから答えた。
「うーんと……緊張っていうか、早く打ちたい気持ちの方が大きいかも」
「頼もしいな、うちの娘は」
恒一がハンドルを握りながら笑う。後部座席の久遠は、スマホをいじりながらぽつりと言った。
「今日は配信なしにするわ。他の子も映るかもしれないしな」
「あら、珍しい」
美沙が意外そうに振り返ると、久遠は肩をすくめた。
「妹の晴れ舞台に、関係ない人を巻き込みたくないだろ。録画は家族用にするだけ」
「お兄ちゃん、なんか今日大人っぽい」
弥々魅がからかうように言うと、久遠は照れ隠しにわざとらしく咳払いをした。
そんなやり取りをしながら、弥々魅はキュロットのポケットにそっと手を当てた。中には、小さなお守りが入っている。
数日前、祖父母の家を訪ねた日のことだった。祖父・護臣は言葉少なに、古びたお守りを弥々魅の手に握らせた。
「……じいじは行けないからこれを渡しておく。頑張ってこい弥々魅」
「お爺ちゃん、ありがとう!」
弥々魅が笑顔で答えると、護臣は照れたようにそっぽを向いた。その横顔を、祖母のエレノアが楽しそうに眺めていたのを、弥々魅はよく覚えている。
◇ ◇ ◇
その頃、祖父母の家は静まり返っていた。護臣は朝から、どうしても外せない用事で出かけている。リビングの窓辺に一人残ったエレノアは、壁の時計を見上げた。
「そろそろ、会場に着いた頃かしら」
弥々魅の晴れ舞台に行けないのは、残念だった。けれど、あの子ならきっと大丈夫。そう思いながらも、時計の針を見るたびに、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
「護臣さんも、きっとどこかで、同じようにそわそわしているでしょうね」
小さく笑って呟いたとき、ふと視線が、棚に飾られた古い写真立てに向かった。今よりずっと若い自分の隣で、クラブを肩に担いだ青年が笑っている写真だった。
──クラブを握っているときだけは、世界で一番楽しそうな顔をしていたのよね、あの人。
エレノアの口元に、懐かしさと寂しさの入り混じった小さな笑みが浮かぶ。あの日の海の向こうの光景は、もう半世紀近く前のことなのに、弥々魅の話を聞くたびに、なぜか鮮やかに蘇る。
「お茶でも淹れましょうか」
誰にともなくそう呟いて、物思いを振り払うように、エレノアは静かに写真立てから目をそらした。
◇ ◇ ◇
会場に着くと、すでに大勢の親子連れで賑わっていた。受付を済ませ、練習グリーンへ向かう途中、聞き覚えのある声が響いた。
「弥々魅ー!」
振り返ると、月森ひなたが手を振りながら駆け寄ってくる。後ろには、両親らしき二人の姿も見えた。
「ひなた、来てくれたの!?」
「応援に来ないわけないでしょ!7級、絶対取ってね!」
「うん、頑張る!」
二人が手を取り合ってはしゃぐ様子を見て、久遠がこっそりスマホを構える。
「お兄ちゃん、それ配信に出すのは禁止だからね」
「出さないって。家族用だよ」
はしゃぐ娘たちの後ろで、恒一が月森夫妻へ歩み寄り、軽く頭を下げた。
「はじめまして、弥々魅の父です。いつも娘がひなたちゃんと仲良くさせて頂いてます」
「こちらこそ、はじめまして。ひなたの父です。娘からいつも弥々魅ちゃんの話ばかり聞いていて、一度ご挨拶したいと思っていたんです」
「弥々魅の母です。今日はわざわざ応援に来ていただいて、ありがとうございます」
美沙が丁寧に頭を下げると、ひなたの母親も柔らかく微笑んだ。手には、小さな保冷バッグが提げられている。
「とんでもない。うちの子が誘ってきたんです。『絶対応援に行く』って聞かなくて。お弁当まで、朝から張り切って手伝ってくれたんですよ」
「お、お母さん!そんなの言わなくていいのに!」
ひなたが照れたように顔を赤くする。弥々魅は目を輝かせた。
「お弁当!7級取った時のご褒美のやつだよね!」
「食べるのは、結果が出てからだからね」
「えっ、ちょっとだけ……」
「だめ」
大人たちが笑い合う横で、弥々魅はぺこりと頭を下げた。
「ひなたのお父さんとお母さんですね!いつもひなたと仲良くしてもらってます!七瀬弥々魅です、よろしくお願いします!」
はきはきとした挨拶に、月森夫妻は思わず顔を見合わせた。
「まあ……本当にしっかりした子ね」
「ひなたも、こんな風にきちんと挨拶できるようになってくれるといいんだが」
「お父さん!」
賑やかなやり取りの中、両家はそのまま連れ立って練習グリーンへ向かった。
受付テントの前では、他の参加者たちも思い思いにウォームアップをしていた。同じ小学一年生くらいの男の子が、父親らしき人と一緒に素振りを繰り返している。すれ違いざま、その子が弥々魅の姿にちらりと目を止めた。
「あ!この前スクールに来てたかわいい子だ!」
「え、どこどこ」
男の子たちがこそこそと話す声が聞こえた。恒一の眉がぴくりと動き、久遠もスマホを構えたまま、そちらをじろりと睨む。当の弥々魅は気にする様子もなく、真剣な顔で自分のクラブを確認していた。
練習グリーンで軽くパットの感触を確かめていると、佐伯コーチが合流した。
「調子はどう?」
「いい感じです!今日のグリーン、朝冷えたからちょっと速いかも」
「よく気づいたね。……本番の確認もしておこうか。Cランクのルールは覚えてる?」
「はい!3ホール回って、スコアで級が決まるんですよね」
「よく覚えてたね。付け加えるなら」
佐伯コーチは、遠くのコースを指さした。
「第一ホールは、本来ロングホールだけどCランクの検定では、グリーンの手前50ヤードから打っていくんだ。短い距離で、寄せとパットの腕を見る試験なんだよ」
「それで、何打で回れば7級なの?」
ひなたが興味津々で身を乗り出すと、コーチは指を三本立てた。
「3ホール合計で7級は15打以内、8級は18打以内、9級は21打以内。つまり7級を狙うなら1ホール平均5打までに収めればいい」
「50ヤードから乗せて2パットなら3打。ミスしても、5打までなら7級だね」
弥々魅が指を折って数えると、コーチは嬉しそうに頷いた。
「そう。ミスが出ても、そこからどれだけ粘れるかを見られるんだ」
コーチの言葉に頷き、弥々魅は素振りを始める。その様子を見ながら、佐伯コーチは少し声を落とした。
「今日は結果より、今まで練習してきたことを全部出し切ることだけ考えて。それだけでいい」
「はい!わたし、いっぱい練習したもん」
迷いのない答えに、コーチは目を細めて頷いた。
その姿を、少し離れた場所から静かに見つめる親子連れがあった。上品な身なりの少年と、隣に立つ落ち着いた雰囲気の女性。一ノ宮玲央と、その母親らしい。
玲央はまっすぐこちらへ歩いてきて、弥々魅の前で丁寧に頭を下げた。
「おはよう、七瀬さん。調子は良さそうだね」
「おはよう、一ノ宮くん!今日はお互い頑張ろうね!」
弥々魅も慌てて頭を下げる。恒一が横からそっと様子を窺い、玲央の礼儀正しい振る舞いに、少しだけ安堵した顔を見せた。その隣では、久遠が腕を組んで玲央をじっと観察している。
(こいつが一ノ宮玲央か。変な目も向けないし、挨拶もちゃんとしてる。……いや、礼儀正しいやつほど要注意だ)
「俺はAランクだから、今日は組が違うけど……七瀬さんがどんな球を打つのか、楽しみにしてるよ」
「Aランクって、弥々魅のCランクと何が違うの?」
ひなたが首をかしげると、玲央は丁寧に答えた。
「Cは50ヤード、Bは150ヤードの地点から始めるんだ。Aは、普通のティーから打つ。本物のコースと同じ条件で回るんだよ」
「へえ、玲央くんはもう本物のコースなんだね。……すごいなあ」
感心した弥々魅は、すぐにぐっと拳を握った。
「でも、見ててよ!わたし、がんばるから!」
「うん。ちゃんと見てるから」
玲央がわずかに口角を上げると、その様子を見ていたひなたが、小さく笑う。
「なんか、二人ってもうライバルって感じだね」
「わたしはそう思ってるよ!でもまずは、今日絶対7級をとる!」
弥々魅の言葉に、玲央も小さく頷いた。
「同感だね。それじゃあ、また後で。お互い良い結果を出そう」
玲央は一礼して、自分の組の方へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、久遠がぼそりと呟く。
「……あの年で、あの落ち着きはちょっと末恐ろしいな。礼儀もいい。……だが、まだ保留だ」
「何の保留よ。十四歳の誰かさんより、よっぽど落ち着いてるわよ」
即座に美沙に突っ込まれ、久遠は肩を落とした。
やがて、スターターのアナウンスが響いた。
「Cランク、第三組、七瀬弥々魅さん、所定の位置へどうぞ」
その声に、家族が一斉に振り返る。
「弥々魅、行ってこい!」
「頑張ってね!」
「弥々魅、しっかり撮ってるからな!」
父と母、そして久遠の声を背に受けながら、弥々魅は佐伯コーチと共に第一ホールへ向かった。ひなたは柵の外から大きく手を振り、少し離れた場所には、腕を組んで見守る玲央の姿もあった。
長いフェアウェイを歩いていくと、グリーンまで50ヤードの地点に、小さなマーカーが立っていた。ここが、Cランクのスタート地点だった。本来のティーグラウンドは、もうはるか後ろだ。
朝の風が頬を撫でる。ポケットの中のお守りを、もう一度そっと握りしめた。
──この風なら……。
ふと頭の奥で、誰かの声が響いた気がした。弥々魅は小さく目を閉じ、深く息を吸い込む。
目の前には、旗の揺れるグリーン。佐伯コーチが、弥々魅のバッグの前で少しだけ首をかしげた。
「50ヤードなら、9番かPWの距離だね」
「7番で打ちます」
弥々魅が迷わず答えると、コーチは一瞬目を丸くして、それから小さく笑った。
「弥々魅ちゃんがそう言うなら。はい7番」
差し出された7番アイアンを、弥々魅は両手で受け取った。
7番を使い9番の距離を打つ。頭の奥にある技術が、それをやってのけた記憶を静かに教えてくれる。周りからは振り幅も、握りの強さも、いつも通りの7番のままに見える、しかし実際はインパクトの瞬間に手首から先の感覚だけで飛ぶ距離を絞り込んでいるのだ。
もちろん、幼い体で完全に再現できるわけではない。それでも、この短い距離なら、体がついてきてくれる気がした。
(7番でいい。いつも通りのスイングで、インパクトだけ調整する)
弥々魅はしっかりとクラブを握り、静かにマーカーの前に立った。観客のざわめきが、ふっと遠くなる。
ゴルフを初めてまだ日は浅いが、それでも積み上げてきたものはある。弥々魅は大きく息を吐き、アドレスに入った。




