第8話〜静寂を生む一打〜
アドレスに入った弥々魅の周りには、既に多くの観客が集まっていた。
グリーンまで50ヤード。旗までの距離が、はっきりと見えている。小さな子どもたちにとってはこれでも精一杯の挑戦だが、弥々魅にとっては、むしろ狙いやすい舞台だった。
「……可愛い子」
「あの子、芸能人とかじゃないよね?」
観客席からそんな囁き声が漏れる。真っ白なキャップの下から覗く整った顔立ちと、堂々としたたたずまいは、ゴルフ経験の浅い六歳児とは思えないほどの華を纏っていた。だが本人はそんな視線にはまるで気づかず、ただ静かにクラブを構えている。
佐伯コーチが小さく頷き、後ろに下がった。
「落ち着いてやれば、弥々魅ちゃんなら大丈夫」
「はい!いってきます!」
第一ホールはフラットな地形で、ピンまでの障害も特にない。弥々魅は7番アイアンを静かに構え直し、狙いを定めた。
──パシュッ。
乾いた音が響くと同時に、白球はまっすぐ空へ伸びていった。放物線の頂点で一瞬静止したように見えたボールは、そのままグリーンへ落ち、二度小さくバウンドしてピンのすぐそばで止まる。カップまで、わずか1メートルほどだった。
「……7番で、あの距離をピン側までよせた?」
少し離れた場所に立っていた玲央が、思わず声を漏らした。整った所作、無駄のないテークバック、そして着地点まで完全に読み切ったような球筋。玲央はしばらくの間、言葉を継げずにただグリーンを見つめていた。
「……嘘でしょ」
観客の中から呟きが漏れる。
「今の子、6歳って話だよね?」
その声を皮切りに、ざわめきが一気に広がった。中には長年子どもをスクールに通わせているという保護者の姿もあり、彼らの反応は他とは少し違っていた。
「今のスイング、フォームが完全に出来上がってる……。あれはまぐれで出るショットじゃない」
「体の使い方が、ジュニアのそれじゃないわね」
経験のある大人ほど、その一打に凝縮された技術の重みを正確に読み取っている。誰もが、目の前の光景がまぐれではないことを、静かに確信し始めていた。
恒一と美沙は思わず顔を見合わせ、久遠はスマホのカメラを構えたまま口を半開きにしていた。
「お父さん、お母さん!今の弥々魅の打った球見た!?ナイスショットどころじゃないんだけど!」
柵の外からひなたが飛び跳ねながら叫ぶ声と、未だ動揺しながらも娘を落ち着かせようとする両親の声が聞こえる。
「ねえ、お父さん、どう!?弥々魅、すごいでしょ!?あたしの自慢の親友なんだから!」
ひなたが興奮気味に父親の腕を引っ張ると、月森氏は視線をグリーンに向けたまま、しばらく言葉を発しなかった。
休日にはよく同僚とコースを回るという、根っからのゴルフ好きだ。だからこそ、今しがたの一打が持つ意味を、誰よりも正確に理解してしまっていた。
「……すごいなんてもんじゃないぞ、あれは」
「でしょ!」
「いや、ひなたが思ってるのと、多分違う意味で言ってる」
月森氏は額に薄く汗をかきながら、乾いた声で続けた。
「今のクラブ、7番だよな。50ヤードを7番で、あの距離感、あの球筋……大人だって、狙って出せるもんじゃない。お父さん、休みの日にコース回ってるけど、それでもあんな寄せ方、そう簡単にできるもんじゃないんだ」
「え、そうなの?」
「ああ。むしろゴルフを知ってれば知ってるほど、ヤバいって分かる」
その言葉に、隣にいた妻が不思議そうに首をかしげる。
「そんなに違うものなの?」
「素人目には『すごい上手な子』にしか見えないだろうけど、あれは……次元が違う。ひなた弥々魅ちゃんはまだゴルフを初めてそんなに経ってないって話だったよね?」
「うん!入学式の少し前に初めてクラブに行ったって言ってたよ」
「…ははっ、正直いまのショットがマグレじゃないんだったら、あの距離での技術は僕より上手いよ」
「お父さんより?」
「僕でも時々上手くいって寄せられる事もあるけど、寄せるとなるとまた話が違うからね」
「あなたがそこまで言うなんて、弥々魅ちゃんって本当にすごいのね」
月森氏はそう呟いたきり、しばらくグリーンから目を離せなくなり、ひなたと母親も父の珍しく動揺する姿を見て改めて弥々魅の凄さを感じていた。
グリーンに上がった弥々魅は、佐伯コーチと共にラインを確認する。
「カップまで、ちょっと下り」
「そうだね。強く打ちすぎないように」
「うん!」
迷いのない素振りの後、弥々魅は静かにパターを構えた。ボールはコロコロと転がり、カップの縁でわずかに揺れると、そのまま吸い込まれるように落ちた。
「入った!」
観客席から拍手が起こる。第一ホール、2打。記録係が小さく数字を書き留めた。
「幸先いいスタートだな」
恒一が両手を握りしめて呟くと、久遠がすかさずカメラを向けた。
「お兄ちゃん、静かにね。まだ検定中だよ」
「録画だよ、録画!いい記録は残さなきゃだろ!ってことで笑顔だ弥々魅!」
「もう!」
第二ホールは緩やかな上り勾配で、ピンはグリーン手前側に切られていた。距離が縮んで見える分、かえって勾配とスピン量の計算が難しい、玄人好みのセッティングだ。佐伯コーチがピンの位置を確認しながら言った。
「上りで、ピンは手前。ちょっと難しいホールだね」
「うん。でも、7番なら大丈夫」
迷いのない返事に、コーチは少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かった。任せるよ」
構えに入る弥々魅の様子を、周囲の観客がじっと見守っている。すでに何人かは、次のショットを見るためだけにこのホールへ集まってきていた。
「本当に、あの子だけ空気が違うな……」
別の保護者が漏らした呟きに、隣にいた久遠が誇らしげに胸を張る。
「うちの妹なんですよ」
弥々魅は一度だけ素振りをすると、静かにアドレスに入った。打ち出された球は、上りの勾配を計算に入れたような柔らかい弾道を描き、グリーンに落ちるとほとんど転がることなくその場で止まった。ピンまで、1メートル半もない。
「……今のも、まぐれじゃないよね」
先ほどとは違う、押し殺したような声が観客の間に広がった。
「上りで手前に切ってあるピンにビタ寄せって、大人でも寄せるの難しいぞ……」
経験のある保護者が呆然とした様子で呟く。まぐれで片付けようとしていた空気は、この一打で完全に消え去っていた。
グリーンに上がった弥々魅は、先ほどと同じように落ち着いた様子でラインを読み、パターを構えた。放たれたボールは緩やかにカーブを描きながらカップへ向かい、コトリと小さな音を立てて沈む。
「よし!」
思わずガッツポーズを作りかけた弥々魅は、ふと振り返って観客の方を見た。
静まり返っている。
拍手も、声も、何もない。ただ全員が、口を半開きにしたまま弥々魅を見つめていた。
「あ、あれ……?」
弥々魅は急に恥ずかしくなったのか、パターを両手で抱えたまま、もじもじとその場で小さくなった。
「え、なんか、わたし変なことした……?」
その様子に、佐伯コーチが噴き出しそうになるのを堪えながら小さく囁いた。
「大丈夫、変なことは何もしてないよ。むしろすごすぎただけ」
柵の外では、ひなたが両手を口に当てたまま固まっており、玲央もまた、無言のままグリーンを見つめ続けていた。
第二ホールも2打。ここまで合計4打で、残すはあと1ホールとなった。




