第9話〜3打で刻んだ証明〜
第三ホールのティーグラウンドに立つと、弥々魅は思わず小さく声を漏らした。
「わ……下ってる」
距離は約70ヤードと短いパー3。けれどティーグラウンドからグリーンまでの間、コース全体がおよそ5ヤードほど下っている上に、ピンはグリーンの奥側にあり、しかもその奥に向かってさらに緩やかな下り勾配になっている。
攻略の難しさを物語るように、周囲では他の参加者やコーチたちが眉をひそめて話し合っていた。
「このホール、ピンまで乗せるの怖いよな……」
「奥まで転がったら、戻すの大変そう」
「安全に手前に落として、確実にパーを狙うしかないんじゃない?」
先に打った玲央も、ピンを狙わなかった。手前のエッジ近くに落とした堅実な一打に、拍手が起こる。子どもたちの間には、すでに「無理に攻めない」という空気が広がっていた。
弥々魅はここまでの二ホールで通算-2。無理をせずとも十分7級に届くのだから。
佐伯コーチも腕を組み、グリーンの奥をじっと見つめていた。
「弥々魅ちゃん、このホールはどう攻める?」
「うーんと……」
弥々魅はしばらく黙ってグリーンを見つめていた。奥に向かって落ちていく傾斜、その先にちょこんと立つピン。旗はほとんど揺れていない。ジミーのように風を読み切れるわけではないけれど、頬に触れる空気は穏やかで、今日はこちらの味方をしてくれそうだった。
頭の中で、何度も弾道をなぞるように視線を動かす。
その様子を柵の外から見ていたひなたが、周りのざわめきに気づいて首をかしげた。
「ねえお父さん、なんかみんな難しいって言ってるけど、そんなに大変なコースなの?」
「ああ、うん……」
月森氏はグリーンの傾斜を見つめたまま、少し考えるように顎に手を当てた。
「ピンが奥にあって、しかも奥に向かって下ってるだろう。あれ、乗せすぎると奥まで転がっちゃって、そこからだとグリーンの外に出ちゃうこともあるんだ」
「え、そうなの?」
「お父さんだったら、多分ここは無理して狙わないな。手前にわざと少し短めに落として、あとはパターで二回に分けて刻む。安全第一ってやつだ」
その会話が聞こえたのか、少し離れた場所にいた恒一と美沙、それに久遠もこちらへ歩み寄ってきた。
「月森さん、今の話、詳しく聞いてもいいですか?」
「ああ、七瀬さん。いや、ここは本当に厄介なホールなんですよ」
月森氏はグリーンを指さしながら続けた。
「傾斜がグリーン全体で奥に向かって下ってるので、狙いすぎるとオーバーした時のリスクが大きいんです。普通は、多少パターの距離が残ってもいいから手前に落とすのが定石ですね」
「なるほど……。弥々魅、大丈夫かしら」
美沙が心配そうに視線をティーグラウンドへ戻すと、恒一もごくりと喉を鳴らした。
「まあ、あの子のことだ。きっと何とかするさ…多分」
「多分って、父さんも自信なさそうじゃん」
久遠がすかさず突っ込むと、恒一は苦笑いを浮かべるしかなかった。けれど柵を握るその手は、さっきから白くなっている。
「弥々魅なら大丈夫だよ!」
ひなたが拳をぎゅっと握ってそう言うと、美沙もふっと表情を和らげた。
そんな周りのやり取りをよそに、弥々魅は静かに頷いた。
手前に落とせば、下りのパットが残る。奥へ外せば、戻せない。どちらも怖いなら、落とした場所でそのまま止めてしまえばいい。
胸の奥で、誰かが小さく背中を押してくれたような気がした。
「決めた!」
「弥々魅ちゃん、今回も直接狙うの?」
「うん!やってみたい事があるの!」
佐伯コーチは目を丸くしたあと、ふっと表情を和らげた。
「そうか分かった、思いっきりやっておいで」
弥々魅は7番アイアンを抜くと、迷いを振り切るようにボールの後ろに構えた。
周囲の視線が、一斉にその一打に集まる。これまで二回、まぐれでは片付けられない技術を見せつけられてきた観客たちは、固唾を呑んで見守っていた。
──シュバッ。
先ほどまでとは明らかに違う、力強い打球音と土を削る音が響いた。
「え?」
観客の何人かが、思わず声を漏らす。ボールは今までよりも明らかに強い勢いで、まっすぐグリーンへ向かって飛んでいった。
「ダフってる…」
「あー……力み過ぎたか……」
「さすがに緊張したのかもね、あの子も」
安全策を選ぶと思われていた場面で放たれた強い一打に、誰もが一瞬、緊張によるミスショットだと思い込んだ。
恒一と美沙も思わず息を呑む。
「弥々魅……」
だが場に広がっていた不安は、ボールがグリーンに落ちた瞬間、一変した。
──トン、トン。
ボールは二度、小さくバウンドした。そして三度目、まるで見えない手にそっと押さえつけられたかのように、その場でピタリと止まる。
「と、止まった?」
誰かが思わずそう呟いた。それ以外に表現のしようがなかった。ボールはカップからわずか1メートルの位置で、動きを完全に止めていた。
周囲には、しん…と静寂が広がる。
「今の……スピンだよな……?」
「あんな綺麗にかかったスピン、大人でも打てないぞ……」
経験のある保護者たちが、震える声で口々に呟く。
「ひなた、弥々魅ちゃんは…あの子は本当にとんでもないぞ。あれは大人でもなかなか打てない球なんだ。スピンと言ってボールに逆回転をかけたんだよ」
「え……もしかしてお父さんも出来ないの?」
「ああ…あんなに綺麗に止めるのは、お父さんにも無理だ」
強い打球音は力みではなく、逆回転をかけるための意図的な強打だったのだ。着弾点からピタリと止まるまでの軌道は、まさに計算し尽くされたものだった。
久遠は口を半開きにしたまま固まっていた。
「マジか。ほんとに止めた……」
恒一は何か言おうとして言葉にならず、久遠の肩をばしばし叩いている。
「見たか久遠!今の見たか!」
「痛いって、見てたよ父さん!」
観客たちは、自分たちが目にしたものが信じられないまま、しばらく言葉を失っていた。
ティーグラウンドの脇で、玲央は拳を強く握りしめていた。
──今の球、意図的にスピンをかけてる。
ドライバーなら、互角以上に渡り合えるとそう思っていた。けれど、練習場でターゲットにぴたりと寄せてみせたあのアイアンも、ここまでの二ホールで見せつけられた技術も、今の一打の前では霞んでしまう。
(スピンショットを打ち、その上であれだけボールをコントロールするなんて、いったいどれだけの人が出来る?)
悔しさが胸の奥からじわりと滲む。同時に、あんな球を打てる存在がいることへの羨ましさも湧き上がる。どうやったらああなれるのか、あのスイングは、あの判断は、一体どこで培われたものなのか──疑問が次から次へと頭の中を巡っていく。
けれど、それら全てを塗り替えるように、抑えきれない歓喜が込み上げてきた。
──ああ、そうか。
自分よりも遥か高みにいる誰かの存在を目の当たりにして、こんなにも心が震える。悔しいはずなのに、笑いたくなるくらい胸が高鳴っている。
(こういう気持ちを味わえるから、ゴルフは面白いんだ)
玲央は小さく息を吐き、静かに拳をほどいた。
ドライバーで、いつか必ず手に入れたいものがある。それは誰にも話していない、自分だけの目標だった。
そして弥々魅のアイアンを見ていると、確信する。彼女はいつか、あれに手の届く場所に立つだろう。
だったら尚更、離されるわけにはいかない。頭の中はすでに、次に自分がどう成長すべきかという方向へ切り替わり始めていた。
──あとで、あのスピンのかけ方を聞いてみよう。
そう心に決めて、玲央はグリーンに向かう小さな背中を、もう一度まっすぐに見つめた。
一方の弥々魅は、静まり返った観客に少し戸惑いながらも、内心では複雑な感情を抱えていた。
──ちがう。まだ、ちがう。
アレクサンダーの記憶にある本物のスピンは、こんな風にバウンドなどしなかった。まるで重力そのものを忘れたかのように、落ちた場所でふわりと静かに止まる、あの感覚。今の一打は、それに遠く及ばない。
──でも、いつかは絶対に…。
アレクサンダーの辿り着いた場所に、いつか自分も立ってみたい。今はまだ誰にも話せない、けれど確かに胸の中にある大きな目標。その思いを闘志に変えてそっとしまい込むと、弥々魅は表情を切り替え、満面の笑みで振り返った。
「やった!寄った!」
その声で、ようやく観客席から堰を切ったように拍手と歓声が沸き起こる。
「すごい……!本当にすごい子だ……!」
「あんなスピン、大人でもそうそう打てないぞ!」
「弥々魅ーっ!かっこいいー!」
歓声の中心で、弥々魅は照れくさそうに小さく頭をかいた。まだ届かない場所があることを、自分自身が誰よりもよく分かっていた。それでも玲央と目が合うと、弥々魅はにっと笑って、小さくピースサインを向けた。
玲央は一瞬だけ目を丸くし、それから、ふっと笑って頷き返す。胸の鼓動が少し速いのは悔しさのせいだと、玲央は疑いもしなかった。
グリーンに上がった弥々魅は、佐伯コーチと共に最後のラインを確認する。
「ここまで来たら、あとは決めるだけだね」
「うん!ラストだもん、ちゃんと決めるね!」
静かに構えたパターから放たれたボールは、緩やかにカーブを描きながらカップへ吸い込まれていった。
第三ホールを終え、佐伯コーチの手元にあるスコアには「-3」の文字が刻まれる。
グリーンの外では、割れんばかりの拍手が響き渡っていた。




