第4話〜はじめまして〜
週末の朝、七瀬家はいつもより早く目を覚ました。
「弥々魅、準備できたか?」
「うん、出来たよ」
玄関で待つ弥々魅の足元には、まだ真新しいゴルフシューズ。母が丁寧に結んでくれた紐を、確かめるようにきゅっと握った。
「今日こそ俺も」
「久遠は今日発売のゲーム実況だろ」
「くそー! この前話した時は行けると思ったのに! なんで過去の俺はこのゲーム、発売日に配信するなんて言ったんだ!」
「ははっ」
「なに笑ってんだ父さん!」
いつものやり取りを終え、父は車のキーを手に取った。弥々魅はくすりと笑って、助手席側の窓から泣きそうな目で玄関先に立つ兄に小さく手を振った。
走り出した車の中で、弥々魅は膝の上のクラブケースをそっと撫でた。窓の外を流れていく街並みを眺めていても、気持ちはずっと打席の上にある。
「緊張してるか?」
ハンドルを握ったまま、父が前を向いたまま尋ねた。
「ううん。楽しみ」
「そうか」
それだけ言って、父はほんの少しだけ口元を緩めた。バックミラー越しに見えるその横顔が、嬉しそうなのを弥々魅は知っていた。
◇ ◇ ◇
香椎浜スポーツガーデンに着くと、朝の光を受けた練習場が広がっていた。博多湾からの風が、旗をわずかに揺らしている。まだ人もまばらで、ボールを打つ乾いた音だけが、澄んだ空気に響いていた。
「おはようございます、七瀬さん」
声をかけてきたのは、コーチの佐伯だった。前回の体験レッスンからは少し間が空いていたが、佐伯は弥々魅のことをしっかり覚えていたらしい。目が合うと、嬉しそうに目尻を下げた。
「今日から正式に、よろしくお願いします」
父が頭を下げると、佐伯コーチはすぐに柔らかく笑った。
「もちろんです。弥々魅ちゃん改めてよろしくね」
「はい!佐伯コーチ、よろしくお願いします!」
元気にお辞儀する弥々魅の隣で、父が周囲をさりげなく見回す。悪い虫──というより、悪い視線がないか、確認せずにはいられない癖だった。
打席に案内される途中、弥々魅の視界の端に、一人の少年の姿が映った。
整った所作でクラブを構え、素振りを繰り返している。年の頃は弥々魅と同じくらいだろうか。無駄のないフォームに、思わず足が止まった。
(……上手)
その視線に気づいたのか、少年がふとこちらを振り向いた。切れ長の目に、驚いたような色がよぎる。
少年は素振りを止めると、まっすぐにこちらへ歩いてきた。物怖じしない足取りに、佐伯が小さく苦笑する。
「玲央くん、おはよう」
「おはようございます、佐伯コーチ」
そう挨拶を返してから、少年──玲央は、弥々魅の前で立ち止まり、丁寧に一礼した。
「はじめまして。一ノ宮玲央です」
「はじめまして。七瀬弥々魅です」
差し出された小さな手を、弥々魅はおずおずと握り返した。しっかりとした握手だった。
「七瀬?もしかして、この前、佐伯コーチを驚かせたっていう子?
「え……」
答えに詰まる弥々魅の代わりに、佐伯が苦笑まじりに口を挟んだ。
「耳が早いな、玲央くんは」
「前回、居たメンバーの間では有名ですよ」
平然と返す玲央に、弥々魅は少し落ち着かない気持ちになった。噂が先に広がっていることが、まだうまく飲み込めない。
「まだまだだよ」
「そうなの?」
玲央はまっすぐに弥々魅を見た。子供らしからぬ、静かな眼差しだった。
「俺、同年代に負けたことないから。上手い子がいるって聞いて、すごく気になってたんだ」
その一言には、驕りではなく、ただ事実を告げるような静けさがあった。父が横で微かに眉を動かしたが、口は挟まなかった。
「そうなんだ!玲央くんすごいね!」
弥々魅が素直にそう返すと、玲央は一瞬だけ言葉に詰まった。褒められ慣れているはずなのに、こんなふうにまっすぐ返されたことは、あまりなかったのかもしれない。
「……今日、七瀬さんの練習を見ててもいいですか?もちろん邪魔はしないので」
思いがけない申し出に、弥々魅は戸惑いながらも小さく頷いた。断る理由も、特に見当たらなかった。
「うん、もちろんいいよ」
玲央は満足そうに──というより、どこか興味深そうに目を細めると、少し離れた場所に立ち、静かに腕を組んだ。
打席に立った弥々魅は、いつものように右手を意識した。あの日の感覚を辿るように、静かにクラブを構える。
(見られてる……)
視線を意識しながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。値踏みするような視線とは、どこか違う。純粋に、技術そのものを見ようとしている──そんな視線だったからだ。
(さっきの素振り……玲央くんは多分、上級生も含めて、このクラブで一番上手い。そんな玲央くんが見てくれてるんだから、頑張らないと!)
スイングが弧を描き、ボールが澄んだ音を立てて飛んでいく。ボールの軌跡を目で追っていた玲央が、わずかに目を見開いた。
その視線の先で、ボールはターゲットグリーンの上に着地し、一度だけ跳ねると、こぼれることなくピタリと止まった。
「……」
玲央は思わず何かを言いかけ、慌てて口をつぐんだ。代わりに小さく、けれど確かに、口元が引き結ばれる。
佐伯が満足げに頷き、父が誇らしげに腕を組む中、玲央だけが、じっと弥々魅の背中を見つめていた。
まだ言葉にならない何かが、その胸のうちで静かに形を変えようとしていた。
──負けたことがない。
自分にそう言い聞かせてきた少年にとって、この日の出会いは小さな、けれど確かな変化の始まりだった。
何球か打ち終えたところで、佐伯が弥々魅に声をかけた。
「弥々魅ちゃん、次は7番アイアンを試してみようか」
「はい!」
元気よく頷いた弥々魅は、渡されたクラブを両手でしっかりと握った。まだ体に馴染んでいない重さだったが、不思議と身体は覚えていた。
「今度はあそこのターゲットを狙ってみようか」
佐伯が指さした先には、練習場の中ほどに立てられた黄色い旗と、その周りに置かれた円形の目印があった。距離にして70ヤードほどだろうか。
「あの旗のところに置けばいいんですね!やってみます」
弥々魅は臆することなく、いつもの調子で打席に立った。
その様子を少し離れた場所から見ていた玲央は、今度は疑うよりも、期待のほうが勝っていた。
(さっきのは偶然じゃない。……聞いてた話、以上だ)
グリーンに止めるだけでも、同年代では珍しい。だがそれが本物の技術なら、旗の近くにも落とせるはずだ。それを確かめたくて、玲央は無意識に一歩、前へ出ていた。
弥々魅が構える。クラブを持つ手の中に、遠い記憶の断片が滲み出すように、感覚が流れ込んでくる。
(……このくらいの強さで、この角度)
誰かに教わったわけではない。それなのに、体が勝手に「正解」を知っている。そんな感覚だった。
振り抜かれたクラブが、澄んだ音を響かせる。打ち出されたボールは高く弧を描き、風に乗って静かに落ちていった。
ぽとり、と。
目印のすぐ脇──誰の目にも明らかな精度で、ボールが着地した。
「……え?」
玲央の口から、思わず声が漏れた。前に出ていた足が、そのまま止まる。
「わ、結構近くいった!」
弥々魅は無邪気に声を弾ませ、佐伯を振り返った。佐伯もまた、驚きを隠しきれない表情で拍手を送っている。
「すごいすごい! 今の、狙い通りだよ」
両手を上げて喜ぶ弥々魅の隣で、玲央だけが動けずにいた。
ドライバーの飛距離なら、才能とパワーで片付けられる。だが、これは違う。狙った場所に、狙った通りに落とす。それは、玲央の今までの経験では説明のつかない"何か"だった。
(ゴルフを始めて、まだ二回目だって――?)
握りしめた拳に、じわりと汗が滲む。負けたことがない、という自分の中の当たり前が、静かに軋み始めていた。
もっとも、当の弥々魅自身は、まだ自分の中にあるものの正体をよく分かっていなかった。感覚として「こう打てばこうなる」というものは流れ込んでくるのに、体の方がまだそれに追いついていない。
力の伝え方、体の使い方――幼い体は、アレクサンダーの技術を再現しきれていなかった。
それはまるで、満々と水を湛えた巨大なダムの、小さな放水口だけを開けているようだった。水はいくらでもあるのに、一気に放てば壁が持たない。だから体が無意識に、流れる量を絞っている。
コースへ出て、実際にカップへ直接沈めるには、まだ程遠い。今日のような「寄せる」精度でさえ、アレクサンダー本人がこの場にいれば及第点すら出さないだろう。
けれど、それに気づけるのは弥々魅本人だけだった。周りの目に映るのは、六歳の少女が放つ完璧なショット。アレクサンダーの技術の下位互換でしかない今の一打ですら、見る者には神業と呼ぶほかないものだった。
佐伯が満足げにメモを取る横で、父はただ黙って、娘の背中を見つめていた。そして玲央は、その日初めて、練習の手を止めて誰かの一挙一動を見つめ続けていた。




