第2話〜二つの才能〜
ジュニアゴルフスクールは福岡市東区にある「カシイスポーツクラブ」という大きな練習場に併設されていた。
週末の朝、弥々魅は父に連れられてその門をくぐる。潮の匂いの混じった風が、練習場の緑を揺らしていた。
すでに体験や通いの生徒たちが、コーチと並んでボールを打っている。そんな中、弥々魅の姿に気づいた途端、あちこちでスイングの手が止まっていく。
「……ねえ、あの子」「わぁ…!かわいい……」「ハーフなのかな、綺麗な瞳」
ざわめきが波紋のように広がる。まだ幼さの残る顔立ちなのに、目鼻立ちは尋常でないほど整っていた。弥々魅自身はそうした視線に慣れておらず、少し居心地悪そうに俯く。
「思ったより広いんだね」
「博多湾が見渡せるのが売りらしい。福岡市内でも指導実績があるそうだ」
父は口元を緩めつつも、内心では気を揉んでいた。
(……こんなに人目を引くと、変な虫が寄ってきやしないか)
カシイスポーツクラブでコーチをしている佐伯は、弥々魅と目が合った瞬間、一瞬足を止めた。まるで美術品を目に焼き付ける時のような、わずかな間があってから、我に返ったように歩み寄る。
「は、はじめまして。
ご連絡を頂いてた七瀬さんですね。本日お子さんを担当します、佐伯です」
「七瀬です。佐伯さん、本日は宜しくお願い致します。」
「七瀬弥々魅です。よろしくお願いします」
「じゃあ、まずはグリップの持ち方から──」
「えっと……握り方は、分かります」
思わず口を突いて出た言葉に、佐伯が驚いた顔をする。
「経験があるの?」
「いえ、初めてです。でも……そのテレビで見たりしてるので」
渡された9番アイアンを握ると、佐伯の目が、わずかに細くなった。素振りをさせると、弥々魅の身体は迷いなく動いた。腰の切り方、肩の開き方、体重移動──何百回と繰り返してきたかのように。
「……もう一回、やってみようか」
(今のスイング、ボールを置く位置を正確に振り抜いてた)
佐伯の声が、わずかに硬くなる。二度目は、一度目よりさらに滑らかだった。
「失礼ですが、お嬢さん、本当に初めてなんですか?体操とか、他のスポーツの経験は」
「いえ、特には」
父も戸惑いを隠せない様子で答える。
佐伯は、一本のクラブを弥々魅に手渡した。
「基本のスイングは大丈夫そうだね。じゃあ、次はこの7番アイアンを持ってみようか」
弥々魅が首をかしげると、佐伯は優しく説明を続けた。
「7番アイアンはね、クラブの真ん中くらいの長さで、重さも長さもちょうどいいんだ。ボールも上がりやすいから、初めての子はまずこれでゴルフの基本の振り方を覚えるんだよ」
弥々魅は頷いて、クラブを受け取る。
構えた瞬間、頭の中に誰かの声が蘇った。狙いを定め、振り抜く。
カシュッ。
乾いた音とともに、ボールは迷いのない弾道でネットの奥まで飛んだ。練習場が、一瞬静まり返った後、コーチの1人が思わず呟く。
「……嘘だろ。あの子、初心者じゃないのか?フォームも弾道も完璧じゃないか」
弥々魅は自分の右手を見つめて不思議な感覚を味わっていた。芯を食った感触──これだ、この感覚を待っていた気がした。
「もう一球、いいですか」
二球目も三球目も同じように綺麗な弾道を描き、佐伯はコーチとしての言葉を失った。周りの打席からも生徒やコーチの視線が集まり、その視線はスイングと、整いすぎた横顔の両方に注がれている。
少し離れた場所から見ていた父は、腕を組んでいた。娘の才能を認められた誇らしさと、あっという間に注目を集めてしまう不安が、胸の中でない交ぜになる。
(……先が思いやられるな。久遠にも何と説明するか)
小さく、ため息をついた。
◇ ◇ ◇
その日の朝、実は──家ではひと悶着あった。
「俺も行く!」
朝食の席で久遠が言い出した。
「弥々魅の初めてのゴルフだよ?兄として見届ける義務があるでしょ」
「久遠、お前は今日、友人と約束があると言ってただろう」
「あー、あれ?別にいいよ、断る」
「即答するな」
父はコーヒーを飲みながら、息子を一瞥した。
「お前が行ったら、絶対に騒ぐだろう」
「騒がないって!静かに応援するから!」
「お前が静かにできた試しがあったか」
ぐっ、と久遠が言葉に詰まる。
それでも諦めきれず、久遠は食い下がった。
「だってあいつらとはいつでも遊べるけど、弥々魅の初めてのゴルフは今日しかないんだよ?弥々魅のほうが大事に決まってるじゃん」
その瞬間、食卓の空気が、すっと冷えた。
「……久遠」
静かな声だった。
母が、いつもの穏やかな微笑みを浮かべたまま、箸を置いている。
「ひと月も前に、約束したのよね?」
「え、いや、母さん、でも」
「約束した相手の方も、楽しみにしてくれているのよね?」
「……はい」
「そう。それなら、どうするのが正しいのかしら」
声は優しい。表情も柔らかい。
けれど、父も弥々魅も、そして久遠自身も知っていた。この家で、本当に怒らせてはいけないのは、にこやかに微笑んでいる時の母だということを。
父はいつの間にかコーヒーカップで顔を隠していた。弥々魅も、そっと卵焼きに視線を落とす。
「……友達との約束、行ってきます」
「ええ、いってらっしゃい。弥々魅の話は帰ってからゆっくり聞けるでしょう?」
「……はい」
しゅんと肩を落とす久遠に、父が小さく咳払いをして、とどめを刺す。
「ほら、さっさと準備してこい。遅刻するぞ」
結局、久遠は渋々と出かける支度をして、玄関で靴を履きながら、ぼそりと呟いた。
「……帰ったら、絶対詳しく聞くからな」
「うん、分かった。お兄ちゃん行ってらっしゃい」
◇ ◇ ◇
練習場からの帰り道、車は海の中道大橋を渡り、博多湾沿いの道を走っていく。父はずっと何かを考え込んでいる様子だった。
「お父さんどうしたの?」
「弥々魅は天才かもしれないな、と思ってな」
「そんな大げさだよ」
「大げさなものか。佐伯さんの顔、見ただろう。あれはお世辞で驚いてた顔じゃないさ」
弥々魅は窓の外に流れる景色を眺めながら、自分の右手をもう一度そっと見つめた。
──アレクサンダー。
夢の中で聞いた名前が、ふと頭に浮かぶ。自分の中にあるのは、きっと、その人の記憶と技術なのだろう。
どうしてそんなことが起きたのか、まだ何も分からない。
けれど──
(もっと、打ちたい)
その気持ちだけは、よりはっきりと胸の中にあった。
◇ ◇ ◇
七瀬親子がカシイスポーツクラブを後にしてから、一時間ほど経った頃。入れ違うようにして、練習場の駐車場に一台の黒塗りの高級車が滑り込んできた。
降り立ったのは、弥々魅と同年代の少年だった。
涼しげな瞳に、さらりと揺れる細い髪。気品のある整った顔立ちには、幼さの中にも育ちの良さが滲んでいる。恵まれた体躯は同年代の中でも頭ひとつ抜けていて、足取りにはすでに大人びた自信があった。
一ノ宮玲央。スポーツ用品を扱う大企業・一ノ宮グループの長男である。
「今日もお願いします、コーチ」
挨拶する横で、常連の生徒たちが何やらひそひそと話し込んでいる。
「その子、初めてなのにスイング全然ブレねぇの」「7番でビタビタに寄せてた!」「俺、佐伯さんが固まってたの見たぜ」「あとめちゃくちゃ可愛い!」
聞くともなしに耳に入ってきた会話に、玲央は片眉を上げた。
「……何の話ですか?」
「玲央くん、今日入れ違いで、すごい子が来てたんだよ。初めてなのにフォームが完璧で、佐伯コーチが『フォームも弾道も完璧だ!』って言うくらいだったんだ」
「初心者がちょっとまぐれで当てただじゃなくて?」
「いや、それが……様子が違ったんだよ。何度繰り返しても狙った目印から2mも無いとこに落とすんだ。俺らもみんな口開けて見てた」
いつも軽口ばかりの先輩たちの、珍しく真剣な顔に、玲央はわずかに眉をひそめる。
「……名前は何で言うんですか?」
「七瀬、とかって呼ばれてたかな」
「七瀬……」
玲央はその名を、小さく口の中で繰り返した。
(一応、覚えておこうかな)
気持ちを切り替え、クラブを握り直して打席に立つ。
キィィン──
夕方の陽を受けて、白いボールが一直線に飛んでいく。見ていた生徒たちの間から、小さなどよめきが起こった。
「うわ、今の伸びやばくない……?」
「さすが玲央くん、同学年じゃ次元が違うわ」
けれど、その称賛の声はほとんど耳に入らなかった。
この日聞いたばかりの「七瀬」という名が、やがて自分にとって、とても大きな存在になることを玲央はまだ知らなかった。




