第1話〜始まりの朝〜
本作のプロットについて、いくつか構成を考えています。
その中で物語の進行に合わせて第◯話の後に【小学生編】【中学生編】といった形でサブタイトルを付けた方がよいのか、少し悩んでおります。
もしよろしければ、皆様のご意見をお聞かせいただけると嬉しいです。
「……っ、ぁ」
七瀬弥々魅は、胸を貫く激痛で飛び起きた。
心臓が、痛いくらいに脈打っている。全身に、じっとりと汗をかいていた。
けれど、その痛みは自分のものではなかった。
夢の中で、胸を押さえて芝の上に崩れ落ちていった“彼“のものだ。
視界いっぱいに迫る緑の芝と、風に揺れる白い旗。周りの悲鳴と遠くで聞こえる歓声。
あれは、見知らぬ誰かの、最期の瞬間だった。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。いつもの、自分の部屋だった。
「……夢?」
呟いて、自分の両手を見下ろす。
先日、六歳になったばかりの、自分の小さな子供の手。当たり前だ。
なのに──まだ、あの骨ばった大きな手の感触が、掌に残っている気がした。
汗で額に張りついた、色素の薄い黒髪をかき上げる。ベッド脇の鏡には、朝の光を受けて淡く透ける髪と、驚きに見開かれた青い瞳が映っていた。
祖母譲りの、澄んだ青。
けれど今は、その瞳の奥に、見慣れない何かが宿っているように見えた。
クラブを握る感触。振り抜いた瞬間の、腰の使い方。風を読む感覚。
知らないはずのものが、身体の奥に、はっきりと刻み込まれている。
弥々魅は、ゆっくりと右手を振ってみた。
──分かる。
なぜか、分かるのだ。
ゴルフなんてやった事もないのに。どう振ればまっすぐ飛ぶのか。どう身体を使えば、力を無駄にしないのか。腰をどう切れば、力を無駄なくボールへ伝えられるのか。
まるで、何十年もそれだけをやってきたかのように。
「……何、これ」
自分の手を見つめながら、弥々魅は小さく呟いた。
夢の中で聞いた声も、白い旗も、胸を貫いた痛みも──どれも、現実にあった事のように、生々しく身体に残っている。
知らない誰かになってゴルフをしている夢。
そう思う一方で、確信めいた予感もあった。
あれは、ただの夢じゃない。
◇ ◇ ◇
弥々魅がダイニングに入ると、両親は向かい合って座っていた。
父はトーストを片手に新聞を広げ、母は弥々魅の分の卵焼きを皿に取り分けている。いつもの光景だ。
「おはよう弥々魅。今日は早いのね」
「お母さんおはよう」
弥々魅は席につきながら、まだどこかぼんやりしていた。夢の余韻が、身体から抜けきっていない。
「ふふ、まだ寝ぼけてるの?」
母の声に、弥々魅は顔を上げた。
言うべきか、迷った。夢の話をしても、きっと信じてもらえない。それに、自分でもまだ、何が起きたのか分かっていなかった。
それでも――
「……あのね」
「ん?」
「わたし、ゴルフがしてみたいの」
父が、新聞から顔を上げた。母も、卵焼きを取り分ける手を止めた。
「ゴルフ?急にどうしたの」
「テレビで見たとか?」
両親が、顔を見合わせる。弥々魅は運動神経こそ良いが、これまでスポーツらしいスポーツに興味を示したことは一度もなかった。
まして、ゴルフなどという単語を口にしたことすら。
「……分かんない。でも」
弥々魅は、自分の右手を見下ろした。
あの感触。あの風景。あの、白い旗。
「どうしてもやってみたいんだ」
自分でも、うまく説明できなかった。
ただ、確信だけがあった。
この手は、もう何かを覚えている。
両親は、しばらく顔を見合わせていたが、やがて父が小さく笑った。
「そこまで言うなら、一度体験に行ってみるか」
「……いいの?」
「普段は我儘も言わない弥々魅が、珍しくそんなに真剣な顔でお願いしてるんだ。父親として付き合ってやらないとな」
母も、苦笑しながら頷いた。
「じゃあ、週末にでも探してみましょうか」
弥々魅は、小さく頷いた。
胸の奥で、何かが静かに――でも確かに、目を覚ましていくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
週末を待たずに、事態は動いた。
その日の夜、リビングでスマホを弄っていた弥々魅の兄――七瀬久遠が、朝食の話を母から聞きつけて飛んできたのだ。
「弥々魅がゴルフやりたいってマジ!?なんで俺に教えてくれなかったんだよ!」
「久遠、うるさいぞ」
父が苦言を投げても、興奮した久遠はとまらない。
「うるさいって酷くない?俺、めちゃくちゃ嬉しいんだけど。弥々魅が自分から何かやりたがるのなんて初めてじゃん!」
十四歳の久遠は、配信者KUONとして界隈ではそこそこ名の知れた存在だった。ゲーム実況をメインにしながらも、雑談配信ではしょっちゅう妹の話をする。「うちの妹が」が口癖のようになっていて、視聴者からは半ば呆れられ、半ば愛されているシスコンとして定着していた。
「視聴者にも教えてやらないと。今日のサムネは『妹がゴルフ始めます』で決まりだな!」
「お兄ちゃんやめて」
「ええー」
ソファに寝転びながら、久遠はスマホをこちらに向けてくる。弥々魅は反射的に顔を背けた。
「弥々魅の顔映すのだけは絶対だめよ」
「分かってるって。弥々魅は全世界のガチャを回しても出ない超絶URだから。映したら環境が壊れる」
「わたし環境を壊すの?」
「ゲーム用語だから気にしなくていいぞ」
母が思わず注意した言葉に対して、兄が真顔でそう返す。
何を根拠にそんなことを言っているのか分からないが、久遠は本気でそう信じているらしい。視聴者から「妹ちゃん出して」とコメントが飛ぶたびに、久遠は頑として首を縦に振らない。
そこへ、風呂上がりの父――七瀬恒一が、タオルで髪を拭きながらリビングに顔を出した。
「久遠、弥々魅に絡むんじゃないぞ」
「絡んでないって、応援してるだけ」
「にしては声がでかい」
父は静かにそう言うと、弥々魅の隣にすとんと腰を下ろした。病院ではクールな医師として通っている父も、家の中では時々こうして、子供のように娘のそばに寄ってくる。
「本当に、ゴルフをやりたいのか」
「うん」
「理由は、まだ自分でもよく分からない、と」
「……うん」
弥々魅が頷くと、父はしばらく黙って娘の顔を見つめていた。何かを探るような、それでいて優しい目だった。
「分かった」
あっさりと、父は言った。
「明日にでも、近くのゴルフスクールを調べておく。週末に体験レッスンの予約が取れる所を探そう」
「お父さんありがとう!」
「弥々魅にやりたい事が見つかったなら善は急げだ。先延ばしにはしたくないからな」
久遠が、ソファの上で身を起こした。
「ずるい! 父さんだって仕事があるだろ! 病院ってそんな簡単に休めるのかよ」
「有給がある。何のために普段頑張ってると思う」
「……弥々魅の好感度稼ぐためでしょ、それ」
「当然だろう」
迷いのない即答に、久遠が小さく笑って、それから真面目な顔になった。
「……弥々魅、良かったな」
その声には、いつもの軽口とは違う、静かな響きがあった。
弥々魅は、二人の顔を交互に見た。父の目にも、兄の目にも、弥々魅がやりたい事を見つけた喜びと、それ以上の愛情が滲んでいる。
理由も分からないまま「ゴルフがしたい」と言い出した娘を、誰も疑わずに、ただ受け止めてくれる。
その優しさが、少しくすぐったくて、同時に、胸の奥が温かくなった。
「……お兄ちゃんありがと」
小さく呟いた声に、久遠が応える。
「何、照れてんの?かわいー」
その横で、父が真顔で母に声をかけた。
「母さん、カメラを」
「嫌われますよ」
母に即座にたしなめられ、父はしょんぼりと肩を落とした。
いつも通りの、賑やかな夜。
けれど弥々魅の中では、確かに何かが動き出していた。
右手には、まだあの感触が残っている。
クラブを握る手の記憶。振り抜いた瞬間の、身体の使い方。
――早く、確かめたい。
自分の中に眠っているものが、本当に「ゴルフ」なのかどうか。それとも、もっと別の何かなのか。
弥々魅はもう一度、右手をそっと握りしめた。




