第九章 選択
倉庫の中の沈黙が、恒一の耳には痛いほど長く感じられた。氷室の言葉が、まだ空気の中に留まっているようだった。
「脅すのか、家族を使って」
恒一の声は自分でも驚くほど低く、抑えられていた。黒沢が椅子から立ち上がった。
「脅しじゃない。忠告だ。お前がこれ以上動けば、周りが傷つく。それだけの話だ」
「同じことだろ」
恒一は一歩前に出た。倉庫の照明が、コンクリートの床に長い影を落としていた。
「黒沢さん、あんたは俺に、この国の歴史を教えてくれた。天皇陛下への敬意、先人への感謝、この国を守るということの意味。それを教えてくれたことに、今でも感謝してる」
黒沢の表情がわずかに緩んだ。だが恒一は続けた。
「でも、あんたが今やってることは、それと矛盾してる。理念のために手段を問わないって言ったな。それなら、その理念そのものが、誰かの金儲けの道具にされてることに、なんで目を瞑るんだ」
「お前に、何が分かる」
黒沢の声が初めて荒くなった。
「俺は三十年、この道を歩いてきた。街頭で殴られ、裁判にかけられ、家族を失った人間もいる。それでも、この国のために声を上げ続けてきた。金の出所がどうであれ、俺たちの言葉が届いて、少しでもこの国が正しい方向に向かうなら――」
「向かってるのか、本当に」
恒一が遮った。
「俺たちの怒りが、誰かの選挙資金になって、誰かの裏金になって、それでこの国が良くなってるって、本気で信じてるのか」
黒沢は答えなかった。その沈黙こそが、恒一の求めていた答えだった。
氷室が静かに立ち上がった。
「感傷的な話は、それくらいにしましょう。倉橋さん、選択肢は単純です。田代氏との接触を絶ち、これまでの情報を破棄する。そうすれば、あなたのご家族には、何も起きません」
「もし、断ったら」
「断るという選択肢は、あなたには実質的にありません」
氷室の声には、脅しというよりも、確定した事実を告げるような響きがあった。恒一はその冷たさに、これまで感じたどの恐怖とも違う種類の恐怖を覚えた。目の前の男は、感情ではなく計算で動いている。計算の中に、恒一の家族の安全は、単なる変数の一つとして組み込まれているだけだった。
恒一はポケットの中で、スマートフォンを強く握った。実は、今日この倉庫に来る前に、田代にこの場所と時間を伝えてあった。「もし三十分経っても連絡がなければ、警察に通報してほしい」と。
「三十分経ったら、俺の知り合いが警察に連絡することになってる」
恒一は静かに言った。氷室の眉が、わずかに動いた。
「あんたらが本当に、俺の家族に何もしないつもりなら、今すぐここから帰らせてくれ。もし俺を閉じ込めるつもりなら、それこそ警察に、皇道会と反社会的勢力との関係を証明する材料を、自分から差し出すことになる」
沈黙が流れた。黒沢と氷室が、無言で視線を交わした。恒一は自分の心臓の音が、倉庫の中に響いているのではないかと思うほど、大きく脈打っているのを感じた。
やがて氷室が、小さく笑った。
「面白い人だ、あなたは」
「答えてくれ」
「今日のところは、お帰りいただいて構いません。ただし――」
氷室は恒一に一歩近づいた。
「これは警告ではなく、予告です。あなたが情報を公にすれば、失うものがあるのは、私たちだけではない。あなたのお父様が築いてきたもの、お母様の名誉、妹さんの未来。すべてが、一度に崩れる可能性があります」
その言葉を残し、氷室は倉庫を出ていった。黒沢はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて恒一に背を向けた。
「お前の言う通りかもしれん。俺は、自分の信じてきたものが、いつの間にか、何かに利用されるだけの道具になっていたのかもしれない」
黒沢の声には、恒一が初めて聞く弱さがあった。
「だが、それでも俺は、この道を降りることができない。今更、他に何を信じればいい」
その問いに、恒一は答えを持たなかった。黒沢もまた、恒一と同じように、何かに飲み込まれた一人の人間なのだと、初めて理解した。
倉庫を出ると、夜風が頬を撫でた。恒一はスマートフォンを取り出し、田代に短いメッセージを送った。
《無事。話がある》
送信ボタンを押しながら、恒一は自分がもう後戻りできない場所に足を踏み入れたことを、はっきりと自覚していた。




