第十章 報い
倉庫での対決から一週間が過ぎた。表面上、何も起きなかった。皇道会からの接触もなく、氷室からの連絡もない。その静けさが、かえって恒一の神経を苛んだ。
田代との打ち合わせは週に二度のペースで続いていた。地方新報の資料室に集められた証拠は、日を追うごとに厚みを増していった。日本再興機構の資金フロー、複数の地方議員の後援会への迂回献金、そして倉橋興産の融資記録。田代は編集局のデスクを説得し、連載記事としての掲載準備を進めていた。
「あと一押しです」
田代はファイルを閉じながら言った。
「財団の実質的な代表者、氷室悠の資金コンサルタントとしての経歴。これさえ裏が取れれば、記事は動かせる」
「裏って、どうやって取るんだよ」
「元同僚か、関係者の証言です。公安時代の氷室を知る人間を、今探しています」
その夜、恒一が家に帰ると、様子がおかしかった。玄関の照明がついたままで、母の靴が乱れて脱ぎ捨てられていた。
「お母さん?」
返事はなかった。恒一は靴も脱がずに廊下を進んだ。居間には誰もいない。二階に上がると、両親の寝室の扉が半開きになっていた。中を覗くと、多恵子がベッドの脇に座り、征二の手を握っていた。征二は目を閉じ、額に包帯を巻かれていた。
「親父……!」
「静かにして。眠ってるから」
多恵子の声は落ち着いていたが、その落ち着きの奥に、抑え込まれた恐怖があった。
「何があったんだよ」
「今日の夕方、会社の帰りに、車で追突された。相手の車はすぐに逃げた。頭を打って、病院で検査してもらったけど、幸い大きな怪我はないって」
「事故なのか、それとも……」
多恵子は答えなかった。答えないことが、答えだった。
恒一は拳を握りしめた。氷室の予告――家族すべてが崩れる可能性――が、現実の形を取り始めていた。
「田代さんとの取材、やめる?」
多恵子が静かに聞いた。恒一は即答できなかった。ここでやめれば、父の怪我も、美咲の恐怖も、すべてが無駄になる。だが続ければ、次はもっと深刻な事態が起きるかもしれない。
「お父さんに、聞いてみようか」
多恵子はそう言うと、征二の手をそっと握り直した。恒一はその横で、眠る父の顔を見つめた。頬に走る擦り傷、額の包帯。この男が背負ってきた世界の重さが、初めて具体的な傷として、恒一の目の前にあった。
翌朝、征二は思ったより早く目を覚ました。まだ本調子ではなかったが、ベッドに半身を起こし、恒一と多恵子を交互に見た。
「大げさに心配するな。この程度の怪我、昔から何度もある」
「昔からって、それが普通なのかよ」
恒一の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。征二はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「恒一、お前に聞きたいことがある」
「なんだよ」
「田代の記事、いつ出る」
「まだ分からない。証言が固まってからだって」
征二は天井を見上げ、しばらく考え込んでいた。
「俺の名前も、出るんだろうな」
「多分」
「倉橋興産も、終わりだな」
その声には、悲壮感よりも、むしろ何かから解放されるような響きがあった。恒一はその変化に戸惑った。
「後悔してるのか」
「後悔はしてる。だが、それは記事のことじゃない。お前たちを、こんな世界に近づけてしまったことだ」
征二は多恵子の方を見た。
「お前と結婚した時、俺はこの仕事から足を洗うつもりだった。でも、洗えなかった。しがらみってのは、そういうもんだ。気づいた時には、もう戻れない場所まで来てる」
多恵子は何も言わず、征二の手を握り続けていた。
「恒一」
征二が恒一を見た。
「田代の取材、続けろ」
その言葉に、恒一は耳を疑った。
「いいのかよ、それで」
「良くはない。だが、お前がここでやめたら、俺がやってきたことも、お前が信じてきたことも、全部、何の意味もなかったことになる。それだけは、俺は許せない」
その言葉の中に、恒一はこれまで見たことのない父の姿を見た。裏社会の男でも、家族を守る父親でもない、一人の人間としての倉橋征二の姿だった。




