第七章 内側
「もしもし、田代です」
三コールで応答があった。恒一は周囲に人がいないことを確かめてから、口を開いた。
「昨夜、妹が尾行された。それから今日、氷室って男に呼び出されて、あんたとこれ以上関わるなと言われた」
電話の向こうで、田代が息を呑む気配がした。
「大丈夫ですか、妹さんは」
「今は安全な場所にいる。……なあ、あんたはどこまで掴んでる」
「話せば長くなります。今夜、会えますか」
「場所は」
「私の事務所に来てください。防犯対策はしてあります」
その夜、恒一は地方新報の支局の裏口から、田代の案内で狭い資料室に通された。壁一面に、切り抜き記事とファイルが積み上げられていた。
「これが、この二年間追いかけてきたものです」
田代はテーブルにファイルを広げた。政治資金収支報告書の写し、法人登記簿、そして手書きの相関図。恒一はその図を覗き込んだ。「日本再興機構」を中心に、複数の企業名、政治家の名前、そして――「倉橋興産」という、父の会社の名前が記されていた。
「日本再興機構は、表向きは保守系の政策研究団体です。しかし実態は、複数の地方議員の裏金づくりと、右派団体への資金供給を兼ねた迂回ルートになっている。金の出所は、いくつかの企業からの『研究助成』という名目の寄付です。その一部が、あなたのお父様の会社を経由している」
「経由って、どういうことだよ」
「倉橋興産は、財団に融資という形で資金を出し、財団はその金を『助成金』として右派団体に配る。表向きは合法です。ただし、その融資の原資が、どこから来ているか――」
田代は言葉を切り、恒一の顔を見た。
「非合法な資金源だとしたら、話は変わってきます」
恒一の背筋が凍った。父の会社が、暴力団の資金洗浄の経路として使われている。それだけでも十分すぎる事実だった。だがそれが、恒一自身の信じてきた思想団体にまで流れ込み、街頭で叫ぶ「怒り」の原資になっていたとしたら。
「なんで、うちの親父の会社が使われてるんだよ」
「お父様は、おそらく最初は選んでいなかった。組織の上の人間に指示され、動かされていただけかもしれません。ですが……」
田代はファイルの中から、一枚の写真を取り出した。数年前に撮られたものらしい、粒子の粗い写真だった。そこには、若い頃の氷室と、恒一の父が並んで写っていた。
「これは」
「氷室悠という人物、公安出身というのは嘘ではありませんが、退職後は複数の政治団体の資金コンサルタントとして動いています。そして十年ほど前、あなたのお父様の組織と、最初の接点を持っている」
恒一は写真を凝視した。今よりずっと若い父の顔が、そこにあった。
「つまり、最初から繋がってたってことか」
「そう考えるのが自然です。あなたが皇道会に入ったのも、本当に偶然だったんでしょうか」
その問いは、恒一の足元を根こそぎ揺さぶった。高校時代、偶然目にした街頭演説に心を動かされ、自ら会の門を叩いたはずだった。だがもし、あの出会いすら、誰かの掌の上で仕組まれたものだったとしたら。
「……考えすぎだ」
恒一はそう呟いたが、自分の声が震えていることに気づいていた。
翌週、皇道会の事務所に戻った恒一を、黒沢が待ち構えていた。いつもの穏やかさはなく、その目には明確な警戒の色があった。
「田代と会ったそうだな」
「誰から聞いたんですか」
「そんなことはどうでもいい。お前、自分が何をしてるか分かってるのか」
黒沢の声には、これまでにない怒気が滲んでいた。恒一は初めて、この男に対して恐怖に近い感情を抱いた。
「俺はただ、本当のことが知りたいだけです」
「本当のこと? お前が信じてきたものが、本当のことだ。それ以上、何がある」
「金の流れも、本当のことの一部でしょう」
黒沢は一瞬、言葉に詰まった。それから、低く抑えた声で言った。
「恒一、お前は会に入って何年になる。俺がお前に何を教えてきた。天皇陛下のこと、この国の歴史のこと、お前が今、街頭で叫んでいる言葉の一つ一つを、俺は本気で教えてきたつもりだ」
「それは、信じてます」
「なら、金の出所なんぞ、些末なことだろう。理念が正しければ、手段は問わない。それが、俺たちの世界だ」
その言葉に、恒一は初めて黒沢の中にある矛盾を、はっきりと見た。理念のためなら手段を問わない――それは、恒一がこれまで敵として教え込まれてきた「戦後民主主義」の欺瞞と、何が違うのか。
「黒沢さん、それは、俺たちが批判してきたやり方と、同じじゃないですか」
黒沢の顔から、初めて表情が消えた。恒一はその沈黙の中に、自分が越えてはいけない一線を越えてしまったことを悟った。




