第六章 尾行
田代との面談から三日後、美咲から着信があったのは深夜一時過ぎだった。
「お兄ちゃん……」
声が震えていた。恒一はベッドから飛び起き、スマートフォンを強く耳に押し当てた。
「どうした、何があった」
「ライブハウスからの帰り、ずっと車に尾けられてて……今、コンビニの中にいる。動けない」
「場所は」
美咲が震える声で告げた住所は、市の外れの、街灯もまばらな工業団地の近くだった。恒一は父の名を呼びながら部屋を飛び出した。
征二はすでに玄関で靴を履いていた。深夜だというのに、まるでこうなることを予期していたかのような速さだった。
「車を出す。お前も乗れ」
黒塗りの車が夜の国道を走る間、征二はどこかに電話をかけ、低い声で指示を出していた。恒一はその横顔に、これまで見たことのない父の別の顔――冷徹に状況を処理する男の顔――を見た。
コンビニに着くと、美咲は店の奥の雑誌コーナーに身を潜めるようにして座り込んでいた。店員が困惑した様子で遠巻きに見ている。恒一が駆け寄ると、美咲は涙を浮かべながら抱きついてきた。
「黒い車、二人乗ってた。信号で止まった時に、窓開けて、こっち見て笑ってた」
美咲の腕には、逃げる途中でどこかにぶつけたのか、擦り傷ができていた。恒一はその傷を見て、拳を強く握りしめた。
征二は店の外に出て、駐車場に停まっている車を確認していた。少し離れた路肩に、テールランプを消した黒いセダンが停まっているのが見えた。征二がそちらへ歩み寄ると、セダンは急発進して走り去っていった。
車のナンバーを見つめる征二の背中に、恒一は初めて父の輪郭の脆さを見た気がした。この男は、裏社会の中でどれほどの修羅場を潜ってきたのか、恒一は知らない。だが今、目の前の父は、ただ娘を守れなかったことに震えている、一人の親でしかなかった。
「今夜から、美咲は俺の知り合いのところに預ける」
車の中で、征二はそう言った。
「知り合いって」
「昔からの付き合いのある人間だ。安全な場所だ」
「ライブ活動は」
「しばらく休ませる。文句は俺が言っておく」
助手席で美咲が小さく頷いた。その横顔には、いつもの快活さはなかった。恒一は妹の肩に手を置いた。何も言えなかったが、美咲はその手に、自分の手を重ねてきた。
翌日、恒一は氷室に呼び出された。市内のホテルのラウンジ、周囲には他に客の姿がほとんどなかった。氷室はいつもと変わらぬ穏やかな表情でコーヒーを飲んでいた。
「妹さん、大変でしたね」
その一言に、恒一の中で何かが弾けそうになった。
「お前が仕組んだのか」
「まさか。私はただの資金提供者です。現場のことまでは関知していません」
「じゃあ、誰が」
氷室はカップを置き、初めてその笑みを消した。
「倉橋さん。あなたは今、非常に危うい場所に立っています。お父様が財団の資金の流れを嗅ぎ回り、あなたが記者に接触した。組織というのは、そういう動きに敏感なんです」
「見てたのか、俺と田代のこと」
「見ていた人間がいた、というだけです。私の指示ではありません」
恒一は氷室の目を見た。そこには嘘をついている気配も、動揺の色もなかった。それがかえって、恒一の背筋を冷たくさせた。この男は、誰が何をしたかを、正確に把握している。だが、決して自分の手を汚さない。
「あなたに、一つ忠告があります」
氷室は静かに言った。
「これ以上、田代という記者と接触するのはお勧めしません。あなたのためではなく、ご家族のためです」
「脅してるのか」
「事実を申し上げているだけです。組織というのは、脅威を感じたときに最も弱い場所を突く。今回のことで、それがどこかは、あなたにも分かったはずです」
氷室はそう言うと、伝票を持って立ち上がった。
「街頭に立つあなたは、本物でした。だからこそ、もったいない。正しい怒りは、正しい場所で使うべきです」
その言葉を残して、氷室はラウンジを去っていった。恒一は一人残されたテーブルで、拳を強く握りしめていた。怒りと恐怖が、体の中で分かちがたく絡み合っていた。
田代をこれ以上巻き込むべきではないのかもしれない。だが、ここで手を引けば、美咲が受けた恐怖も、父の告白も、すべてが無駄になる。
恒一はスマートフォンを取り出し、田代の番号を表示させた。指が震えていた。それでも、通話ボタンを押した。




