第五章 血族
名刺を握りしめたまま、恒一は父の書斎に向かった。深夜十一時を過ぎていたが、灯りはまだついていた。ノックもせずに扉を開けると、征二はデスクに向かって書類に目を通していた。
「親父」
「なんだ、こんな時間に」
恒一は名刺を机の上に叩きつけた。征二の視線がそこに落ち、一瞬で表情が変わった。
「美咲が、こいつらに脅された」
征二は名刺を手に取り、しばらく無言でそれを見つめていた。やがて、低い声で言った。
「……座れ」
恒一は立ったままだった。
「座れと言ってる」
その声の圧に、恒一は自分でも意外なほど従順に椅子に腰を下ろした。父の声にこれほどの重みを感じたのは、初めてだった。
「日本再興機構は、うちの組織とは直接関係ない。だが、金の流れの一部は、うちを経由している」
「どういうことだよ」
「詳しく話す気はない。お前が知る必要のないことだ」
「必要あるだろ! 美咲が脅されたんだぞ!」
征二はしばらく黙っていた。恒一はその沈黙の中に、父が普段見せない類の逡巡を見た。
「あの財団の実質的な運営者は、政界の裏方をやってる連中だ。表の政治資金規正法をすり抜けるための器として、うちのようなところの金融ルートが使われている。皇道会も同じだ。お前らのような団体は、金を右から左に流すための、都合のいい看板の一つに過ぎない」
「看板……」
「お前が街頭で叫んでる言葉、あれは誰かが真剣に信じて金を出してるわけじゃない。あの怒りが、票と金に変わる。それだけのことだ」
恒一は言葉を失った。長年信じてきたものが、父の口から、あまりにも実務的な言葉で解体されていく。
「じゃあ、なんで俺を止めなかったんだよ」
「止めて、聞くような子供だったか、お前は」
その一言に、恒一は何も言い返せなかった。
「美咲に手を出したのは、俺への牽制だ。俺があの財団の金の流れを、少し嗅ぎ回りすぎた。向こうへの返事のつもりで、お前らを使ったんだろう」
「返事って……美咲は関係ないだろ」
「関係ある、ないの話じゃない。あいつらにとっては、家族全員が一枚のカードだ」
征二はそう言うと、名刺を引き出しにしまった。
「美咲には手を出させない。それは俺がやる。お前は、あの会から手を引け」
「簡単に言うなよ」
「簡単に言ってるわけじゃない」
征二の声が初めて震えた。恒一はその震えに、父の中にある何か――恐怖に似た感情――を見た気がした。
「俺はお前に、こんな世界を見せたくなかった。お前が何を信じようが構わないと思ってた。だが、お前が信じてるものの正体は、俺が生きてきた世界と、大して変わらない」
その言葉を最後に、征二は口を閉ざした。恒一は書斎を出た。廊下の暗がりに、母がひっそりと立っていた。どこまで聞いていたのか、多恵子の表情からは読み取れなかった。
「お母さん」
「美咲は、部屋で休んでる。心配しなくていい」
「お母さんは、これ、知ってたの」
多恵子は少し間を置いてから答えた。
「知らなかった。でも、驚いてもいない」
「なんでだよ」
「この家に、驚くようなことなんて、もうほとんど残ってないから」
その言葉は、諦めのようでいて、どこか静かな覚悟のようにも聞こえた。恒一は自室に戻り、机の引き出しから田代の名刺を取り出した。今度は迷わなかった。スマートフォンを取り出し、番号を打ち込んだ。
翌日の午後、恒一は市内の喫茶店で田代と向き合っていた。窓の外では、何も知らない人々が普段通りに歩いていた。
「連絡くれるとは思いませんでした」
田代はそう言いながら、テーブルにICレコーダーを置いた。恒一はそれを一瞥し、頷いた。
「録っていいです。ただ、一つだけ約束してください」
「なんです?」
「妹は、この件と関係ない」
田代はレコーダーのスイッチを入れながら、静かに言った。
「約束します。それで――日本再興機構について、知っていることを教えてください」
恒一は深く息を吸った。これまで自分が信じてきたものの土台が、今まさに崩れようとしている。その事実に、恐怖と同時に、奇妙な解放感があった。




