第四章 衝突
田代の名刺を机の引き出しにしまい込んだまま、恒一は数日を過ごした。連絡する勇気も、捨てる決心もつかなかった。そんな中、次の街宣活動の予定が回覧された。県境に近い工業都市での集会。皇道会にとっては年に一度の大規模な行事で、他県の支部からも応援が来るという。
「今年はカウンターも本気で来るぞ」
集合場所で、橋本が緊張した面持ちで言った。恒一はヘルメットを受け取りながら、初めてその重みを不快に感じた。今までは、この重さが誇りだった。今は、ただの重量にしか感じられない。
集会は昼過ぎに始まった。街宣車の上で幹部が演説をぶち、隊列は歩道いっぱいに広がって行進した。予告通り、交差点の向こう側には「差別を許すな」というプラカードを掲げたカウンターの集団がいた。数は皇道会側とほぼ同数。警察が両者の間に規制線を張っていたが、その線は最初から頼りなく見えた。
「税金泥棒は日本から出ていけ!」
誰かが叫んだ。それに呼応するように、対岸から罵声が飛んだ。「ヘイト野郎!」「恥を知れ!」言葉の応酬は次第に熱を帯び、規制線の警察官が両側から押されて後退し始めた。
恒一はその只中で、ただ声を張り上げることしかできなかった。何を言っているのか、途中から自分でもわからなくなった。ただ、周りが叫ぶから叫ぶ。隣が拳を振り上げるから、自分も腕を振る。
規制線が崩れたのは一瞬だった。誰かが誰かを突き飛ばし、それが引き金になった。恒一の視界の端で、橋本がカウンター側の若い男と揉み合いになるのが見えた。恒一は反射的にそちらへ駆け寄った。
止めるつもりだった。少なくとも、自分ではそう思っていた。だが人波に押され、体勢を崩したところで、誰かの肘が恒一の頬に当たった。熱いというより、鈍い衝撃だった。視界が一瞬白くなり、気づけば恒一は地面に膝をついていた。
顔を上げると、目の前に若い男が立っていた。恒一と同じくらいの歳に見えた。男の顔にも恐怖と興奮が入り混じっていた。互いに、なぜここでこうしているのか、わかっていないような目をしていた。
その男が拳を振り上げるのが見えた。恒一は身構えたが、殴られる前に警察官が割って入った。怒号と悲鳴、笛の音。恒一は誰かに腕を掴まれて後方に引きずられた。
騒動が収まったのは十分後だった。皇道会側は三名が軽傷、カウンター側も同程度の負傷者を出したという。恒一は殴られた頬を押さえながら、路肩に座り込んでいた。手のひらについた血を見て、それが自分の口から出たものだと気づくまで、少し時間がかかった。
橋本が肩で息をしながら近づいてきた。
「やったな、恒一」
その声には、まるで戦果を称えるような響きがあった。恒一はその声に、初めて心の底から嫌悪を感じた。何をやったというのか。誰も何も守っていない。誰も何も勝ち取っていない。ただ、痛みと血が、両側に等しく増えただけだった。
「……別に、何もやってない」
恒一は立ち上がりながら、そう呟いた。橋本はその言葉の意味を理解しないまま、笑って肩を叩いてきた。
その夜、恒一が家に帰ると、玄関先に美咲が座り込んでいた。目の周りが赤く腫れ、スマートフォンの画面には見知らぬ番号からの着信履歴が並んでいた。
「美咲、どうした」
美咲は顔を上げ、兄の頬の傷に気づいて息を呑んだ。
「お兄ちゃんこそ、その顔」
「いいから、何があった」
美咲はしばらく黙っていたが、やがてぽつぽつと話し始めた。ライブの物販に、繰り返し金を貸してくれと言ってくる客がいたこと。断ると、SNSで根も葉もない中傷が広まったこと。そして今日、事務所の帰りに、見知らぬ男に「お前の兄貴に伝えておけ」とだけ言われ、名刺を渡されたこと。
美咲が震える手で差し出した名刺を、恒一は受け取った。そこに印刷されていたのは、「日本再興機構」の文字だった。




