第三章 記者
田代という記者が声をかけてきたのは、月例の街宣活動が終わった直後だった。県庁前の歩道で機材を片付けていた恒一に、名刺を差し出してきたのだ。
「地方新報の田代と申します。少しお話を伺えませんか」
恒一は名刺を受け取らなかった。マスコミという存在に対する不信は、皇道会に入る前から、恒一の中に染みついていた。
「取材なら、会の広報を通してください」
「広報を通すと、当たり障りのない回答しか返ってきませんから。倉橋さんご本人に伺いたいんです」
田代は四十前後、くたびれたジャケットを着た男だった。目つきだけが妙に鋭く、獲物を見定めるような視線を恒一に向けていた。
「何を聞きたいんですか」
「皇道会の資金源について。特に、ここ二年ほどで急に活動規模が拡大した理由について」
その言葉に、恒一は思わず身構えた。氷室の顔が頭をよぎる。
「知りません」
「本当に?」
田代はポケットからメモ帳を取り出した。
「『日本再興機構』という財団、ご存知ですよね。あなたの所属する会だけでなく、複数の右派団体、それから一部の地方議員の後援会にも、資金が流れています。この財団の実質的な運営者が誰か、ご存知ですか」
「知りません」
「そうですか」
田代はメモ帳を閉じた。
「もう一つ。あなたのお父様、倉橋征二さんの関連企業と、この財団の間に、資金の往来があります。偶然にしては、少し出来すぎていると思いませんか」
その瞬間、恒一の中で何かが冷たく固まった。父の名前が、こんな場所で、こんな形で出てくるとは思っていなかった。
「それが本当なら、記事にすればいい。俺に聞くことじゃない」
「記事にする前に、当事者の声を聞くのが筋ですから」
田代はそう言うと、名刺をもう一度差し出した。今度は恒一も、無意識のうちにそれを受け取っていた。
「気が変わったら、連絡ください。私はあなたたちの思想を断罪したいわけじゃない。ただ、その思想が、誰の得になっているのかを知りたいだけです」
田代が立ち去ったあと、恒一はしばらくその場に立ち尽くしていた。手の中の名刺が、やけに重く感じられた。
事務所に戻ると、黒沢が険しい顔で電話をしていた。恒一の姿を見ると、黒沢は電話を切り、こちらを見た。
「田代とかいう記者に会ったろう」
「見てたんですか」
「別のやつから連絡が来た。何を聞かれた」
恒一は迷ったが、正直に伝えることにした。財団の話、父の名前が出たこと。話を聞くうちに、黒沢の表情がどんどん硬くなっていくのがわかった。
「……あの記者、前にもうちのことを嗅ぎ回ってた。放っておけ」
「本当なんですか、財団の金が、うちの親父の会社と繋がってるって」
黒沢は一瞬、言葉に詰まった。その一瞬が、恒一にとっては何よりも雄弁な答えだった。
「お前が気にすることじゃない」
「気にしますよ。俺の親父の話だ」
「恒一」
黒沢の声が低くなった。
「お前は思想のために活動してるんだろう。金の流れなんぞ、上の人間が考えることだ。お前が首を突っ込んで、いいことは一つもない」
その言葉は、これまでの黒沢からは聞いたことのない類の忠告だった。守るための言葉というより、遠ざけるための言葉に聞こえた。
家に帰ると、母の多恵子が珍しく居間でテレビも点けずに座っていた。恒一が帰宅したことに気づくと、多恵子は静かに口を開いた。
「今日、お父さんの会社に、新聞記者から取材の申し込みがあったそうよ」
恒一は黙って母の向かいに座った。
「お母さんは、知ってたの。親父の会社と、うちの会の財団が繋がってるって」
多恵子はしばらく黙っていた。それから、感情を押し殺したような声で言った。
「自衛隊にいた頃、私はずっと『国を守る』という言葉を、疑ったことがなかった。でも退官してから、この街で暮らして、色んなものを見た。お父さんの仕事もそう。あなたの活動もそう」
「それで?」
「国を守る、国のため、って言葉は、誰にでも使える便利な言葉なの。守るべき国の中身を誰も具体的に語らないまま、その言葉だけが独り歩きする。私はそれが、ずっと怖かった」
恒一は何も言えなかった。母の言葉は、これまで聞いたどんな批判よりも、静かで、それゆえに深く刺さった。
「お父さんは、悪いことをしてるの」
多恵子は首を振った。
「悪いとか正しいとか、そんな単純な話じゃない。ただ、あの人は、あなたが思っているよりずっと前から、あなたの活動を見ている。そして、心配している」
「心配? あの親父が?」
「あなたが利用されることを、心配してる」
その言葉が、恒一の胸に重く沈んだ。利用される。街頭で叫んできた自分の言葉、注ぎ込んできた時間、信じてきた「正しさ」――それらすべてが、誰かの掌の上で転がされているだけだとしたら。
その夜、恒一は自室で田代の名刺を何度も見つめた。連絡するべきかどうか、決めかねたまま、時間だけが過ぎていった。




