第二章 名刺
氷室悠という男は、事務所の空気に馴染まなかった。皇道会の人間は概して声が大きく、身振りが大きく、感情の起伏がそのまま言葉になる者ばかりだった。氷室は違った。声量を抑え、視線を動かさず、言葉を選ぶ前に必ず一拍の間を置く。恒一はその間の使い方に、公安という肩書き以上の何かを感じた。
「倉橋さんの演説、動画で拝見しました。声がいい。届く声だ」
「ありがとうございます」
「ただ、内容がもったいない。反共、天皇制護持、戦後体制の否定――正しいことを言っているのに、誰にも刺さらない言葉の選び方をしている」
黒沢が横で苦笑した。
「氷室さんは容赦ないんだ。うちの若いのの言葉づかいまで直そうとする」
「直すというより、磨くんです。同じ石でも、削り方次第で光る」
氷室はそう言って、恒一の目をまっすぐ見た。その視線には、値踏みするような冷たさと、同時に何かを期待するような温度が同居していた。恒一は居心地の悪さを感じながらも、目を逸らさなかった。
「今日は何のご用で?」
「資金の話です。会の運営、率直に言って厳しいでしょう」
黒沢の表情がわずかに強張った。だが氷室は構わず続けた。
「うちが関わっている財団から、活動助成の形で支援できます。もちろん、紐付きの話ではありません。あくまで、志を同じくする者同士の協力です」
「財団、というのは」
恒一が聞くと、氷室は名刺入れから別の一枚を取り出した。「一般財団法人 日本再興機構」――聞いたことのない名前だった。
「詳しいことは黒沢さんにお伝えしてあります。倉橋さんは、まず現場を続けてください。街頭に立つ人間が減れば、この国はもっと早く終わる」
その言い回しに、恒一は妙な既視感を覚えた。自分がいつも口にしている言葉と、あまりに似すぎていた。まるで自分自身の演説を、鏡越しに聞かされているような。
氷室が帰ったあと、恒一は黒沢に尋ねた。
「あの財団、大丈夫なんですか」
「大丈夫も何も、金はもう二年前から入ってる。お前が知らなかっただけだ」
黒沢の声には珍しく苛立ちが滲んでいた。恒一はそれ以上聞くことができなかった。
その週末、恒一は珍しく非番だった。美咲のライブに顔を出すつもりで、市内の小さなライブハウスに向かった。裏路地に面した雑居ビルの地下、防音の甘い扉を開けると、蒸し暑い空気とペンライトの光が押し寄せてきた。
美咲はステージの端で、汗だくになりながら振り付けをこなしていた。恒一の知る妹とは違う顔だった。家では常に気だるげで、政治の話になると露骨に興味なさげな顔をする妹が、この場所では別人のように輝いている。恒一はその落差に、羨望に近い感情を覚えた。
ライブが終わり、物販ブースの裏で待っていると、美咲が汗を拭きながら出てきた。
「本当に来てくれるとは思わなかった」
「暇だったから」
「相変わらず愛想ないね、お兄ちゃん」
美咲は笑いながら、ペットボトルの水を一気に飲んだ。恒一はその横顔をしばらく見ていたが、ふと気になっていたことを口にした。
「最近、変な客とか来てないか」
「変な客?」
「絡んでくるやつとか、金の話してくるやつとか」
美咲の表情がわずかに曇った。
「……なんで、そんなこと聞くの」
「いや、なんとなく」
美咲は視線を逸らし、それ以上は答えなかった。恒一はそれ以上追及しなかったが、妹の反応の中に、何か言いたくても言えないものがあることを感じ取っていた。
「お兄ちゃんこそ、大丈夫なの。あの団体」
「大丈夫って?」
「ネットで見たよ、お兄ちゃんが街宣してる動画。コメント欄、ひどいことばっかり書かれてた」
「気にしてない」
「気にしなよ。お母さんだって、心配してるんだから」
「お母さんが、何も言わないだけだろ」
美咲は小さくため息をついた。
「言わないんじゃなくて、言えないんだと思うよ。お父さんのことも、お兄ちゃんのことも」
その一言が、恒一の中に残った。母が言えないことの中身を、恒一はまだ知らなかった。
夜遅く家に帰ると、玄関先に見知らぬ黒塗りの車が停まっていた。恒一が門をくぐると、車の中から父・征二が降りてきた。スーツの襟元が乱れ、頬に薄い擦り傷があった。
「親父、それ」
「なんでもない」
征二はそう言って、恒一の脇をすり抜けようとした。だが恒一は思わず声をかけた。
「なんでもないわけないだろ」
征二は足を止め、息子を振り返った。その目には、恒一が今まで見たことのない疲労の色があった。
「お前、右翼やってるんだったな」
唐突な問いに、恒一は戸惑った。
「今更、何だよ」
「氷室って男、知ってるか」
心臓が跳ねた。恒一は父の顔を凝視した。
「……知ってる。うちの会に、金を出してる人だ」
征二は短く笑った。それは笑いというより、苦い息のようなものだった。
「その金、どこから出てると思う」
「財団って言ってた」
「財団の金は、どこから来る」
答えられない恒一を見て、征二はそれ以上何も言わず、家の中に入っていった。恒一はしばらくその場に立ち尽くしていた。父が自分の活動に触れたのは、これが初めてだった。そしてその初めての会話が、警告のような響きを持っていたことに、恒一は言いようのない不安を覚えた。




