第一章 街頭
拡声器のハウリングが収まると、倉橋恒一は喉の奥にざらついた痛みを感じた。もう一時間近く声を張っている。県庁前の歩道には、通行人よりも警備の警察官のほうが多かった。
「――我々は、戦後八十年にわたって歪められてきたこの国の姿を、断じて容認しない!」
声は湿った十一月の空気に吸い込まれて、思ったほど遠くまで届かない。恒一は横目で隊列を見た。皇道会青年部、総勢十二名。黒い詰襟に白手袋、日章旗を掲げた街宣車の脇に整列している。誰も彼の演説など聞いていない。スマートフォンを構える数人の通行人は、面白がっているだけだ。それでもいい、と恒一は思う。届く言葉より、届く姿がある。
演説を黒沢守に代わったところで、恒一は隊列を離れて水を飲んだ。喉に流し込んだペットボトルの水はぬるく、鉄の味がした。
「恒一、顔が死んでるぞ」
隣に立った先輩会員の橋本が、笑いながら肩を叩いてくる。恒一は無理に口角を上げた。
「疲れただけです」
「疲れるようなことしてねえだろ、まだ」
橋本の言う通りだった。今日はまだ何も起きていない。過激派対策の警備が厚く、カウンター側――「反差別」を掲げる別の団体――との接触もない。恒一の中には、奇妙な失望と安堵が同時にあった。
演説が終わり、隊列を解散させたのは正午過ぎだった。街宣車を会の倉庫に戻し、恒一は着替えもせずに黒沢の軽トラの助手席に乗り込んだ。
「今日はおとなしかったな」黒沢がハンドルを握りながら言う。六十過ぎとは思えない太い腕、日焼けした首筋。二十年前は自身も街頭に立ち、機動隊と揉み合って前歯を二本折られたという逸話を、恒一は何度も聞かされてきた。
「はい」
「おとなしいのが一番いい。派手にやって捕まったら、それこそ向こうの思う壺だ」
黒沢は「向こう」という言葉をよく使う。それが誰を指すのか、恒一は正確には知らない。反日勢力、マスコミ、政治家、あるいはもっと漠然とした「戦後民主主義」そのもの。輪郭のはっきりしない敵。だが黒沢が「向こう」と口にするとき、その声には迷いがなかった。恒一はその迷いのなさに、いつも救われてきた。
軽トラは国道を外れ、川沿いの道に入る。窓の外を流れる灰色の水面を見ながら、恒一はふと父のことを思い出した。今朝、家を出るときに玄関で鉢合わせた父の顔。疲れているのか、それとも苛立っているのか、判別のつかない表情だった。
「親父さん、最近どうだ」
まるで心を読んだように黒沢が聞いてきた。
「変わりないです。忙しそうですけど」
「金融のほうも大変だろうな、今どき」
その言い方に、恒一はわずかな引っかかりを覚えた。黒沢は父の仕事を「金融」としか言わない。実際には、父・征二が広域指定暴力団の二次団体で若頭を務めていることを、黒沢は知っているはずだった。知らないはずがない。この街で、その筋の人間を知らない大人はいない。
だが誰もそれを口にしない。恒一の父が誰であるかは、皇道会の内部では暗黙の了解として扱われ、同時に触れてはならない話題でもあった。
軽トラが皇道会の事務所――古い雑居ビルの三階――に着くと、黒沢は先に降りて鍵を開けた。狭い部屋にはスチール机が四つ、壁には歴代総裁の写真と、達筆すぎて読みにくい書が何枚も貼られている。恒一はいつもこの部屋の匂いが好きだった。埃と墨と、古い煙草の匂い。ここにいる間だけ、自分が何者であるかがはっきりする気がした。
「恒一、ちょっと座れ」
黒沢が茶を入れながら言った。事務所には他に誰もいない。
「今度の集会、東京の本部から人が来る。氷室って若いのが、お前に会いたいと言ってる」
「氷室……?」
「元は公安にいたらしい。今はうちに協力してくれてる。頭が切れる男だ」
恒一は湯呑を受け取りながら、初めて聞く名前を頭の中で反芻した。元公安、という響きに、微かな違和感が走る。
「公安が、うちに?」
「向こうも色々あるんだろう。詳しいことは知らん。ただ、資金周りに強い男らしくてな。会の運営、最近厳しいのは知ってるだろ」
黒沢の口調はいつもと変わらなかったが、恒一はその「資金周り」という言葉に、また小さな引っかかりを覚えた。今日、この会話の中だけで二度、いつもなら気にも留めなかったはずの単語が、皮膚の下に小さな棘のように刺さっている。
家に帰ったのは午後七時を過ぎてからだった。倉橋家は市の外れ、田畑に囲まれた古い二階建ての家だった。周囲の家々とは違い、敷地は塀で囲われ、防犯カメラが三台設置されている。表札には「倉橋」とだけあり、誰の家であるかを知らなければ、ただの裕福な農家の家に見えた。
玄関を開けると、母の多恵子が廊下に立っていた。まだスーツ姿のままだった。
「遅かったわね」
「集会が長引いて」
「ご飯、温めてあるから」
母の声には抑揚がなかった。それは冷たさというより、規律の産物だった。多恵子は自衛隊を退官してもう五年になるが、家の中の時間割は今も部隊にいた頃と変わらない。夕食は七時、風呂は八時、消灯は十一時。破られたことは、恒一の記憶の限り一度もない。
食卓には父の姿がなかった。
「親父は?」
「まだ帰らないでしょう」
多恵子は味噌汁をよそいながら、視線を合わせずに答えた。父の帰りが遅いことについて、母は何も詮索しない。それが二人のあいだの、長年かけて出来上がった作法だった。
恒一は黙って箸を取った。テレビでは夜のニュースが流れている。防衛費増額を巡る国会の議論、隣国のミサイル発射実験、物価高に喘ぐ地方経済。多恵子は箸を止め、画面を見つめていた。
「お母さんは、今の防衛費、どう思う?」
恒一が聞くと、多恵子は少し間を置いてから答えた。
「足りない、と思う。だけど、金額の問題じゃない」
「じゃあ、何の問題?」
「覚悟の問題。この国は、守るということの意味を、もう長いこと考えていない」
その言葉は、恒一が街頭で叫んでいる主張と、表面上はよく似ていた。だが多恵子の口から出ると、まったく違う響きを持った。恒一の言葉には常に「敵」がいた。反日勢力、戦後体制、既得権益。多恵子の言葉には、敵がいなかった。ただ、空白があるだけだった。
「お母さんは、皇道会のこと、どう思ってるの」
恒一は思い切って聞いた。これまで何度も聞きたくて、聞けずにいた質問だった。多恵子は箸を置き、初めて息子の目を見た。
「あなたが選んだ道でしょう」
「それだけ?」
「軍隊は、命令された相手を撃つ。あなたたちは、誰の命令で、誰を殴っているの」
その一言は、恒一の胸の奥に、思いがけない深さで突き刺さった。母は皮肉を言ったわけではない。ただ、事実を確認しただけの声だった。だからこそ、恒一は何も言い返せなかった。
食事を終えて自室に戻ると、スマートフォンに妹の美咲からメッセージが来ていた。
《お兄ちゃん、今度のライブ観に来る? 8月にしては珍しく席余ってるから》
美咲は市内のライブハウスを拠点にする地下アイドルグループ「シャインズ」のメンバーだった。恒一は妹の活動にほとんど関心を持てずにいたが、それでも欠かさずメッセージには返信していた。
《行けたら行く》
そう打ち込んで送信した直後、既読がついた。返信はなかった。恒一はベッドに横たわり、天井を見つめた。
父は裏社会の男、母は国家の番人、妹は政治とは無縁の世界で笑っている。そして自分は、その三つのどれとも違う場所で、拡声器を握って声を張り上げている。
――国のため。
その言葉を、恒一は何年も疑ったことがなかった。だが今夜、母の一言が、初めてその言葉の底に小さな穴を開けた気がした。
誰の命令で、誰を殴っているのか。
答えられなかった自分に、恒一は静かな苛立ちを覚えながら、眠りに落ちていった。
翌朝、恒一が事務所に着くと、見知らぬ男が黒沢と談笑していた。歳の頃は三十前後、細身のスーツに、街宣活動をする人間には見えない洗練された身のこなし。男は恒一を見ると、軽く会釈した。
「氷室です。話は黒沢さんから聞いてます」
差し出された名刺には、聞いたこともないシンクタンクの名前が印刷されていた。恒一はその名刺を受け取りながら、昨日から続く違和感の輪郭が、少しずつ形を持ち始めるのを感じていた。




