第十四章 最後の手段
土曜日の朝、恒一は目覚めるとすぐに新聞を確認した。三面の隅に、小さく、しかし確かに、田代の連載最終回が掲載されていた。差し止めは実現しなかったのだ。
「氷室悠――『世論』を売る男の正体」
見出しの下には、公安時代の経歴、退職の経緯、そして「日本再興機構」設立から現在までの活動が、証言と資料に基づいて詳細に記されていた。恒一は記事を読み終え、深く息を吐いた。ついに、すべてが公になった。
その安堵は、しかし長くは続かなかった。
昼過ぎ、恒一のスマートフォンに、美咲からのメッセージが届いた。
《お兄ちゃん、変な人が家の周り、ウロウロしてる。お母さんも気づいてる》
恒一は急いで家に向かった。玄関に着くと、多恵子が険しい表情で外を見ていた。
「二人、見知らぬ男が、道路の向こうから、ずっとこっちを見てる」
「親父は」
「会社。今、連絡した」
その時、恒一のスマートフォンが鳴った。表示されていたのは、氷室の番号だった。
「もしもし」
「見ましたよ、記事」
氷室の声は、これまでと変わらず穏やかだった。だがその穏やかさの奥に、これまで感じたことのない、剥き出しの何かがあった。
「あなたは、私が最後まで手を汚さない人間だと思っていたでしょう」
「違うのか」
「基本的には、違いません。ですが、すべてを失う瀬戸際に立たされたとき、人は、普段しないことをするものです」
その言葉と同時に、電話越しに車のエンジン音が聞こえた。恒一の背筋が凍った。
「今、どこにいる」
「あなたのお宅の近くです。少し、話しませんか」
恒一は玄関を飛び出した。道路の向こうに、氷室が一人で立っていた。想像していたような護衛や武装した男たちの姿はなかった。ただ、一人の男が、静かにこちらを見ていた。
「一人か」
「私は、こういう時こそ、自分の足で来るべきだと思っている人間です」
氷室はゆっくりと近づいてきた。恒一は身構えたが、その様子に、暴力の気配はなかった。
「記事のおかげで、私が作り上げてきたものは、ほぼすべて失われました。財団は解散、これまでの協力者も、次々と手を引いていくでしょう」
「自業自得だろう」
「そうかもしれません」
氷室は、恒一の家を見上げた。
「一つだけ、聞かせてください。あなたは、これから何を信じて生きていくんですか」
その問いは、恒一が予想していたどんな言葉とも違っていた。
「あなたが街頭で叫んでいた言葉、天皇制、反共、戦後体制への否定――あれは、私が利用した『装置』の一部でした。ですが、あなた自身がそれを信じていたことは、紛れもない事実です。その信念を、これからどうするんですか」
恒一はしばらく答えられなかった。氷室の問いは、恒一自身がこの数ヶ月、繰り返し自分に投げかけてきた問いそのものだった。
「分からない」
恒一は、正直に答えた。
「思想そのものが、間違ってたとは思わない。でも、その思想を、誰かに都合よく使われる形でしか、表現できなかった自分は、間違ってたと思う」
「では、これから、どうします」
「自分の言葉で、考え直す。誰かに教えられた『正しさ』じゃなく」
氷室は、その答えを、しばらく黙って聞いていた。それから、ふと笑みを浮かべた。皮肉でも嘲りでもない、どこか疲れたような笑みだった。
「私にも、かつて、そういう時期がありました。国のために働いているつもりでいた。いつの間にか、国という言葉の中身が空洞になっていることに、気づかないふりをしていた」
「今は」
「今は、ただ、生き延びる方法を考えているだけです」
氷室はそう言うと、踵を返した。
「あなたのご家族には、もう手を出しません。私にはもう、その力も、意味もない」
その背中が、路地の向こうに消えていくのを、恒一はしばらく見つめていた。勝利という言葉には、あまりにも似つかわしくない、乾いた終わり方だった。
その夜、家族全員が久しぶりに揃って夕食を取った。テレビでは、日本再興機構を巡る一連の報道が、簡潔に取り上げられていた。関連する地方議員の一人が、辞職を表明したというニュースだった。
「終わったのかな、これで」
美咲が箸を止めて言った。
「一区切り、かな」
恒一が答えた。
「皇道会は、どうなるの」
「解散するかもしれない。黒沢さんは、まだ何も言ってこないけど」
多恵子が静かに口を挟んだ。
「終わったんじゃなくて、始まったんだと思う。あなたが、自分の言葉で何かを信じ直すこと」
その言葉に、恒一は箸を置いた。窓の外には、いつもと変わらない夜が広がっていた。だが恒一の中では、何かが確かに変わっていた。




