終章 国体
年が明けて、皇道会は正式に解散した。黒沢は会の清算手続きを終えたあと、恒一に一度だけ会いに来た。かつての事務所ではなく、市内の小さな喫茶店で。
「これから、どうするんですか」
恒一が聞くと、黒沢は少し照れくさそうに笑った。
「田舎に戻って、畑でもやろうかと思ってる。柄じゃないがな」
「黒沢さんらしくない」
「らしくないさ。三十年、街頭に立ってた男が、今更、鍬を持つんだから」
黒沢はコーヒーを一口飲んでから、続けた。
「お前に聞きたいことがある。今でも、天皇制のこと、この国の歴史のこと、大事だと思ってるか」
恒一は少し考えてから答えた。
「思ってます。ただ、その大事さを、誰かを殴ることで証明する必要はないと、今は思う」
黒沢は頷いた。
「俺も、もっと早く、それに気づくべきだった」
その言葉を最後に、黒沢は喫茶店を出ていった。恒一は、その背中を見送りながら、複雑な感情を抱いた。憎しみでも、感謝でもない。ただ、一人の人間が、長い旅の果てに、別の道を歩き始めるのを見送る感覚だった。
田代の連載は、地方紙としては異例の反響を呼び、全国紙にも一部転載された。日本再興機構は解散し、関係が指摘された議員のうち二名が辞職、一名が次の選挙で落選した。倉橋興産は、融資の実態が明らかになったことで、金融庁の調査対象になったが、征二自身が組織との関係を絶ち、資産の一部を返済に充てることで、最終的には大きな刑事責任を問われることなく事態は収束した。
「運が良かっただけだ」
征二は、そのことについて、いつもそう言っていた。
美咲は、ライブ活動を再開した。以前よりも、ステージでの表情に、どこか力強さが増したように、恒一には見えた。
「怖くないのか」
ある日、恒一が聞くと、美咲は笑って答えた。
「怖いよ。でも、お兄ちゃんが変わったの見て、私も、ちゃんと自分の足で立たなきゃって思った」
多恵子は、防衛関連のシンクタンクを退職し、地元の高校で非常勤講師として、安全保障や現代史を教え始めた。
「教壇に立って、初めて分かったことがある」
ある夜、恒一に多恵子はそう言った。
「生徒たちは、みんな、何かを信じたがってる。国とか、正義とか、大きな言葉を。その気持ち自体は、悪いものじゃない。ただ、その気持ちを、誰が、どう使おうとしているかを、自分で見極める力を持たないといけない」
「それを、教えてるの」
「教えてる。それが、私にできる、最後の『国を守る』仕事だと思ってる」
恒一自身は、皇道会解散後、しばらく定職に就かず、田代の下で取材の手伝いをしながら過ごした。街頭に立つことはもうなかったが、政治や社会に対する関心を失ったわけではなかった。むしろ、以前よりも深く、複雑に、物事を見るようになった。
ある日、田代に誘われて、恒一は市民集会に足を運んだ。移民政策を巡る討論会だった。会場には、様々な立場の人間が集まっていた。かつての恒一なら、敵と味方に瞬時に分類していたであろう顔ぶれだった。だが今の恒一は、ただ、そこにいる一人一人の言葉に、耳を傾けていた。
集会の帰り道、田代が聞いた。
「どうでした」
「みんな、それぞれの『正しさ』を持ってるんだなって、思った」
「それで?」
「その正しさが、誰かに利用されないように、自分で見張っておかないといけないんだと思う」
田代は小さく笑った。
「悪くない結論だ」
恒一は夜空を見上げた。冬の澄んだ空に、いくつかの星が瞬いていた。かつて拡声器を握って叫んでいたあの声は、今、どこにも届いていない。だが、その代わりに、恒一は初めて、自分自身の声で、静かに考えることを覚えていた。
国家を信じるとは、何を信じることなのか。
その問いに、恒一はまだ、明確な答えを持っていない。ただ一つ、確かなことがあった。それは、誰かに与えられた答えを、そのまま信じることだけは、二度としないということだった。




