第3話 今日も、おかえりなさい
私は庭へ続く扉を開いた。
夕暮れの風が、伸び放題になった草を静かに揺らす。
庭の奥には、小さな墓石が一つだけ建っていた。
屋敷を見守るように。
帰る人を待つように。
私はゆっくりと近付く。
墓石には、一人の男性の名前が刻まれていた。
屋敷の中の肖像画で見た、あの青年の名前だった。
その下には、小さな文字が並んでいる。
――王国歴三〇二年 北方戦線にて戦死。
「……そうだったんですね。」
帰らなかったのではない。
帰れなかった。
奥さんは、その事実を知っていた。
この庭に墓まで建てているのだから。
それでも、玄関へ立ち続けた。
食卓を二人分用意し続けた。
毎日、「おかえりなさい」と言い続けた。
私は墓前へしゃがみ込む。
小さな花瓶。
枯れた花。
そして、鎖の切れた革紐。
その先には、一つの結婚指輪が通されていた。
何度も握られたのだろう。
金色は少しくすんでいる。
私は両手でそっと持ち上げた。
景色が静かに揺れる。
青空の下。
青年は鏡の前で軍服を整えていた。
左手の結婚指輪を外し、革紐へ通す。
「本当に、それで行くんですか?」
後ろから女性が覗き込む。
青年は照れくさそうに笑った。
「戦場じゃ失くしそうだからな。」
「首に掛けておけば安心だ。」
女性は少しだけ頬を膨らませる。
「ちゃんと帰ってきたら、指にはめ直してくださいね。」
「ああ。」
青年は優しく頷いた。
「帰ったら、一番最初に——」
そこで映像は途切れた。
私はゆっくりと目を開く。
「最後まで……言えなかったんですね。」
墓石へ視線を落とす。
青年の願いは、帰ることじゃない。
もう、それは叶わない。
だけど。
最後に言えなかった一言だけは、まだこの指輪に残っている。
私はネックレスを胸に抱え、屋敷へ戻った。
廊下は静まり返っている。
夕日だけが長く差し込み、床を橙色に染めていた。
食卓の前で足を止める。
二脚並んだ椅子。
片方だけが少し引かれている。
向かいには、湯気の消えた食器。
誰も座ることのない席を、何年も空け続けていたのだ。
私は椅子へ手を添えた。
また景色が揺れる。
女性が料理を並べている。
「今日は少し遅いですね。」
笑顔で玄関を見る。
しばらく待つ。
やがて料理は冷めていく。
それでも女性は片付けない。
椅子も引いたまま。
ただ、帰りを待っていた。
映像は短く終わる。
私は静かに息を吐いた。
「知っていたんですよね……。」
「帰ってこないことも。」
「お墓の下で眠っていることも。」
それでも。
待つことだけは、やめられなかった。
私はゆっくり玄関へ向かう。
あの日、女性が何度も立っていた場所。
青年が帰ってくるはずだった場所。
小さな棚へ、結婚指輪の通ったネックレスをそっと置いた。
「ここが。」
「あなたの帰る場所だったんですね。」
屋敷の中を、柔らかな風が吹き抜けた。
止まっていた空気が、ゆっくりと動き始める。
玄関の扉が、小さく軋んだ。
ぎぃ、と静かな音を立てながら、ひとりでに開いていく。
夕焼けに染まる玄関先に、一人の青年が立っていた。
軍服姿のまま。
首には、あの結婚指輪を通したネックレスが掛かっている。
穏やかな笑顔だった。
私は振り返る。
食卓のそばに立っていた女性も、ゆっくりと玄関へ目を向けた。
その姿を見た瞬間、女性の肩が小さく震える。
涙が頬を伝う。
青年は一歩、また一歩と家へ入ってくる。
靴音はしない。
それでも、この家は確かに主人を迎えていた。
女性は涙を拭い、少しだけ笑った。
何十年も毎日言い続けた、その一言を。
「……おかえりなさい。」
青年は何も言わない。
ただ、優しく微笑む。
そして、口元だけが小さく動いた。
――ただいま。
私は静かに目を閉じる。
「──想還。」
柔らかな光が二人を包み込む。
女性はそっと手を伸ばす。
届かないはずなのに、その手はどこか温もりを確かめるようだった。
「今日も……言えて、よかった。」
青年は静かに頷く。
その笑顔は、出征の日と変わらなかった。
二人の姿は淡い光となり、夕暮れの空気へ静かに溶けていく。
最後に青年は、この家を一度だけ振り返った。
長い時間を過ごした家。
大切な人が待ち続けてくれた家。
その景色を胸に刻むように目を細める。
やがて二人の姿は見えなくなった。
屋敷は静かだった。
窓から吹き込む風が、白いカーテンをやさしく揺らす。
私は玄関へ向かい、静かに一礼した。
「お邪魔しました。」
返事はない。
それでも、この家はもう誰かを待ち続けることはない。
門をくぐり、私は一度だけ振り返る。
さっきまで寂しそうに見えていた屋敷は、不思議とどこにでもある温かな家に見えた。
私は小さく微笑み、そのまま西へ続く街道を歩き出した。
日が沈むころ、小さな宿場町へ着いた。
次回『街道の花束』




