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第7話 俺たちの家?

第7話 俺たちの家?


 電話越しに聞こえる徹の呼吸は荒かった。


 桃子は新しい部屋の窓辺に立ちながら、静かにスマートフォンを耳へ当てていた。


 ワンルームの小さな部屋だった。


 前のマンションより狭い。


 けれど窓が大きく、夜になると街の灯りが柔らかく見える。


 白い壁に、まだ何も飾っていない。


 家具も最低限だった。


 細い脚の丸テーブル。


 グレーの二人掛けソファ。


 小さな観葉植物。


 段ボールはまだ部屋の隅に積まれている。


 引っ越して三日目。


 生活感は薄いのに、不思議と息がしやすかった。


『どういうことだよ!?』


 徹の声が響く。


 桃子は窓ガラスへ額を軽く寄せた。


 夜の空気で少し冷たい。


『なんで知らない奴が住んでるんだよ!』


「売ったの」


 静かに答える。


 徹が息を呑む気配がした。


『だから、何でだよ!』


 桃子は目を閉じる。


 遠くで救急車のサイレンが聞こえた。


 新しい街の音はまだ少しだけ他人行儀だ。


『意味わかんねぇんだけど!』


「そのままの意味」


『桃子!」


 怒鳴り声。


 でも桃子の胸は驚くほど静かだった。


 怒っていない。


 もう。


 たぶん感情が終わっている。


 キッチンからはスープの匂いがしていた。


 さっき作ったばかりのコンソメスープ。キャベツとソーセージだけの簡単なものだ。


 徹といた頃は、もっとちゃんとした食事を作ろうとしていた。


 栄養とか、彩りとか、そういうものを考えて。


 でも今は、自分が落ち着けることのほうが大事だった。


『なあ、待ってくれよ』


 徹の声が少し変わる。


『何で急にそんなことするんだよ』


「急じゃないよ」


『急だろ!』


 桃子は小さく息を吐いた。


「徹は、急だった?」


『は?』


「新居売った時」


 数秒、沈黙。


 電話の向こうで車の音が通り過ぎる。


 たぶんまだマンションの前なのだろう。


 徹は低い声で言った。


『あれは親のためだろ』


「うん」


『だからちゃんと説明したじゃん』


「事後報告だった」


『でも家族だから——』


 その言葉を聞いた瞬間、桃子は笑ってしまった。


 本当に小さく。


 乾いた笑いだった。


『……何だよ』


「徹、そればっかりだね」


『は?』


「家族だから」


 桃子は窓の外を見る。


 向かいのマンションのベランダに洗濯物が揺れていた。


 誰かの生活。


 誰かの境界線。


「徹にとって家族って、どこまでなの?」


『どこまでって何だよ』


「相手のものも、勝手に使っていいって意味?」


『そんな言い方してないだろ!』


「でもやったよね」


 静かな声だった。


 徹が黙る。


「私たちの新居、売った」


『だからそれは……』


「相談もしないで」


『必要ある?って言っただけだろ』


「うん」


 桃子は頷く。


「その時わかったの」


『何が』


「価値観、全然違うんだなって」


 徹が苛立ったように舌打ちした。


『だからって家売るか普通!?』


 桃子は少し考えた。


 普通。


 その言葉も、徹はよく使う。


『普通家族なら』

『普通結婚したら』


 その“普通”の中には、いつも桃子がいない。


「徹」


『何』


「さっき、“俺たちの家”って言ったよね」


『当たり前だろ!』


「違うよ」


 静かな声。


 自分でも驚くほど穏やかだった。


「それ、最初から私の家だった」


 電話の向こうで息を呑む音がした。


『……は?』


「祖母が残してくれた家」


『だから結婚したら——』


「結婚したら共有?」


 徹が言葉を詰まらせる。


「徹は最初から、そう思ってたんだね」


『普通そうだろ!』


「私は違った」


 桃子はキッチンへ歩く。


 小鍋の火を止める。


 コンソメの香りがふわりと広がった。


『桃子、俺たち結婚するんだぞ?』


「しないよ」


 徹が黙る。


 空気が止まったみたいだった。


『……何言ってんの』


「婚姻届、出さない」


『は?』


「もう書類も処分した」


『待てよ』


 徹の声が震え始める。


『ちょっと待てって』


 桃子は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。


 コップに注ぐ音が静かに響く。


『桃子』


 今まで聞いたことのない声だった。


 怒りと混乱と焦りが全部混ざっている。


『そんなの認められるわけないだろ』


「私はもう決めたから」


『ふざけんなよ!』


 怒鳴り声。


 けれど桃子は目を閉じるだけだった。


 不思議だった。


 怖くない。


 以前なら、こんな声を出されれば動揺したと思う。


 でも今は、遠くで知らない人が怒っているみたいだった。


『俺、今日荷物持って行ったんだぞ!?』


「見た」


『見た!?』


「監視カメラの通知来たから」


『じゃあ何で……!』


「徹」


 桃子はゆっくり言った。


「私、あの時ちゃんと悲しかったんだよ」


 徹が黙る。


「新居、好きだったから」


 リビング。


 大きな窓。


 二人で選んだカーテン。


 未来の話。


 ちゃんと幸せだった。


 少なくとも桃子は、そう思っていた。


「でも徹は、私が悲しいって想像もしなかった」


『そんなこと……』


「家族だから、で終わらせた」


 沈黙。


 冷蔵庫の低い音だけが部屋に響く。


 桃子はコップを握りしめた。


「たぶんね」


『……』


「これからもずっとそうだったと思う」


 義母が勝手に家へ来て。


 徹が笑って、


『家族だから』

と言う。


 桃子の物も、時間も、境界線も。


 少しずつ“共有”されていく。


 その未来が、もう無理だった。


『俺……そんなつもりじゃ……』


 初めて徹の声が小さくなる。


 桃子は少しだけ目を伏せた。


「うん」


『桃子』


「でも、そうなったの」


 それが最後だった。


 徹は何か言おうとして、言葉にならなかった。


 桃子は静かに通話終了を押す。


 部屋が静かになる。


 窓の外では、どこかの部屋の灯りが消えた。


 桃子は小さく息を吐く。


 胸の奥が少しだけ痛い。


 それでも。


 ちゃんと、自分で呼吸できている気がした。



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