第8話 違い
第8話 違い
雨だった。
駅前のガラス張りのカフェには、湿ったコートの匂いとコーヒーの香りが混ざっていた。
窓際の席に座りながら、桃子はぼんやり外を見る。
歩道を行き交う人たちは皆、傘を差して足早だった。水滴がガラスを細く流れ落ち、向こう側の景色を滲ませている。
午後六時。
仕事帰りの客で店内はほどよく混んでいた。
エスプレッソマシンの蒸気音。食器の触れ合う音。低い話し声。
そのざわめきの中で、桃子だけが妙に静かだった。
白いニットに、黒のタイトスカート。薄いグレーのチェスターコートを椅子へ掛け、カフェラテへ口をつける。
ミルクの甘い匂い。
少しぬるくなっていた。
約束の時間を五分過ぎた頃、徹が店へ入ってきた。
すぐに桃子を見つけ、足早に近づいてくる。
「……待った?」
「別に」
徹は向かいへ座った。
ネイビーのスーツは少し皺になっていた。髪も乱れている。目の下には薄く隈ができていた。
ここ数日、まともに眠れていない顔だった。
店員が水を置く。
徹は礼も言わず、すぐ桃子を見た。
「何でこんなことしたんだよ」
開口一番だった。
桃子は静かにカップを置く。
「話したでしょ」
「話したって、意味わかんねぇよ」
徹は苛立ったように声を落とす。
「マンション売るとか普通じゃないだろ」
「そうかもね」
「婚約までしてたんだぞ?」
「うん」
「なのに何で……」
徹は言葉を切った。
怒鳴りたいのに、店だから抑えている。
そんな顔だった。
桃子は窓の外を見た。
赤信号で止まる車のライトが、濡れた道路へ長く伸びている。
この人と、結婚するはずだった。
不思議なくらい遠い話に感じる。
「徹」
「何」
「私、ちゃんと考えたよ」
徹が眉を寄せる。
「考えたって?」
「どうして無理だったのか」
桃子はゆっくり言葉を選ぶ。
「最初、新居を売ったことがショックなんだと思ってた」
「……」
「でも違った」
徹は黙っている。
店員が隣の席へ料理を運んでいく。
トマトソースの匂いが一瞬漂った。
「私が無理だったのは」
桃子は徹を見た。
「徹が、“相談しなくていい”と思ったこと」
徹の表情が強張る。
「それまだ言うのかよ」
「だってそこが全部だから」
「親助けるのにいちいち許可必要なの?」
「必要だったよ」
桃子の声は穏やかだった。
「だって二人の新居だったから」
徹が息を詰まらせる。
「俺が金出して買った部屋だろ」
「そうだね」
「じゃあ——」
「でも私たちが住む家だった」
徹は口を閉じた。
桃子は続ける。
「私は、そう思ってた」
短い沈黙。
徹は視線を逸らした。
窓ガラスに映る自分の顔を見ている。
「……親、困ってたんだよ」
「うん」
「放っとけなかった」
「それもわかる」
「じゃあ何でだよ!」
思わず声が大きくなる。
周囲の視線が少しだけ向いた。
徹は舌打ちし、小さく「すみません」と呟く。
桃子は静かにカフェラテを飲んだ。
もう半分以上冷めている。
「徹」
「……何」
「あなたは二人の新居を勝手に売った」
徹の肩がぴくりと動く。
桃子は少し間を置いた。
雨音が窓を叩く。
「私は、自分の家を売った」
徹は何も言えなかった。
ただ桃子を見ている。
理解できない、という顔だった。
桃子は小さく息を吐く。
「この違い、わかる?」
徹の喉が動く。
「……何が違うんだよ」
「全部」
桃子は即答した。
「徹は、私の意思を聞かなかった」
「……」
「でも私のマンションは、最初から私のものだった」
徹が眉を寄せる。
「結婚したら同じだろ」
「違う」
桃子は静かに首を振った。
「徹はそこが、ずっとわかってない」
徹は苛立ったように腕を組む。
「家族になるんだから共有だろ」
その言葉に、桃子はほんの少しだけ笑った。
悲しいくらい、変わらない。
「ねえ徹」
「何」
「共有って、勝手に始まるものじゃないよ」
徹は黙る。
「相手が“いいよ”って言って、初めて成立するの」
カフェの照明がガラスへ反射している。
外はもう暗かった。
徹は視線を落とし、ぽつりと言った。
「そんな大げさな話じゃ……」
「私には大きかった」
桃子は自分の指を見る。
もう指輪は外していた。
白い薬指だけが少し軽い。
「私、怖かったんだよ」
徹が顔を上げる。
「結婚したらたぶん、全部そうなるって」
「全部?」
「家も、お金も、時間も」
義母の声が蘇る。
『家族なんだから』
『助け合いでしょ』
そのたびに、桃子の境界線は少しずつ消えていく。
「徹は悪気ないんだよね」
桃子は苦く笑った。
「だから余計に無理だった」
徹の顔が歪む。
「俺、そんな酷いことした?」
その言葉を聞いた瞬間、桃子は確信した。
本当に理解していない。
最後まで。
「うん」
静かに答える。
「私には、酷かった」
徹が目を伏せる。
カフェのスピーカーから、静かなピアノ曲が流れていた。
昔、二人で旅行したホテルでも同じ曲が流れていた気がする。
あの頃は幸せだった。
ちゃんと。
でももう戻れない。
「桃子」
徹が低い声で言う。
「俺、どうしたらよかった?」
桃子は少し考えた。
それから静かに答える。
「最初に、“相談していい?”って聞いてほしかった」
徹は何も言えなかった。
その沈黙だけで、全部終わっていた。




