第五十六章
ルナは唖然と、自分の手を見つめていた。
そこには小さな針が握られている。
しくじった。
背中からの一撃で、コリーを殺害するつもりだった。
だが針は、ほとんど刺さらなかった。
あの程度では、毒もそんなに入らなかっただろう。
どうしてそんなミスをするのか。
否……どうしてかは、知っている。
コリーを殺す瞬間、ダンを思ってしまったのだ。
「やってやる!」
躊躇はすぐに罰となり、形になる。
コリーがナイフを手にしたのだ。
──こいつ……。
ルナはコリーの構えに、覆面で隠した目を細める。
意外に侮れない相手だと分かった。
今まで何人もの人を殺して来たのだろう、ナイフの持ち方が、明らかに素人ではない。
ルナは大きく息を吸い、簪から長い針をすうっと抜く。
「やろうっ!」
コリーが鋭く踏み込んでナイフを突き出し、ルナはさっと横にかわした。
身体が、がら空きだ。
ルナの右腕が反射的に伸びる、目標は急所たる首筋……が、やはりコリーに針を突き立てられない。
「そんなっ!」
ルナは狼狽を口に出していた。
そんな筈がないのだ。彼女は右手を上げて、精査する。
いつもの手。華奢で小さいが、誰をも殺す自信がある手……変わらない。
あるいは三日分の徹夜が響いているのか……あり得ない。
その程度でポテンシャルを下げるような鍛え方をしていない。ルナは常に誰よりも研ぎ澄まされているのだ、そう教わった。
彼女は改めて、構える。
コリーがナイフを向け、前傾体勢になったからだ。
『頼むから父ちゃんを嫌わないでくれ』
──ダンさん……でも、あなたのお父さんは私の兄の仇なんです……。
『父ちゃんは、優しいところもあるんだ』
──アレクシス兄様だって、私に優しかった。
『おれの為に名誉を捨てたんだ』
──でも、アレクシス兄様に、あんな酷いことをしたんです。
ダンの声がコリーのナイフ共に鋭く閃き、ルナの頭の中でぐるぐると駆け回る。
『ルナ。今日父ちゃんが呑んだ分の代金は、必ずあんたに返す。だから父ちゃんを嫌わないでくれ』
──もう遅いのです。失われた命は帰ってこないの。
しかしルナは頽れかけた。
『逃走』の二文字が目の前に赤く点灯する。
恐らくデイミアンとサイモンには失望されるだろう。もしかすると失敗を罪として、処刑されるかも知れない。
だが、ここでコリーを、ダンの父親は殺せない。
なのに運命は、ルナを叱咤した。




