第ニ話 天使の殺人
転びそうになりながら走った、誰も追いかけてこないのに必死に逃げた。スカートで全力疾走、登下校の景色が過ぎ去っていく。
たかが一分程度で走れなくなった、息がもたない、足が痺れる。つんのめるように止まった、手を膝に置いた。毎朝何となく手を合わせているお地蔵さんの前だ。夜だからどんな顔をしているのか見えない。
……ずっと遠くに逃げたいのに、近所だ。
「はぁ、はぁ……ちくしょう」
腫れぼったい涙目を両手でこする、自分の過呼吸がちぐはぐに思えた。鬱な感情を否定するように、身体は酸素を求めているのだ。
ふらふら歩く、疲れた頭はふわふわしてる。夜は日常を非日常に浸す、誰かから逃げきれた気がする。清々しさは数秒の感情だと知りつつ、胸いっぱいに深呼吸をした。夜の空気は軽くて、重い気持ちを中和してくれる。
夜っていいなぁ、好きだ。
「ははは……どうしよ」
事態は何も解決していない、むしろ悪化している。家から逃げ出したところで時計の針が止まるわけじゃない。
世界は、みんなは私を置き去りにしていく。まだ幼い私はついて行くしかない、嫌でも。
だってそれが普通だから。普通に合わせることが、普通だから。
(……こんなに悩む必要、ないんだろうな)
駐車場の砂利を靴の裏でごりごりと転がす、なんの意味もない。中学生の家出、なんの意味もない。
細い夜道をとぼとぼ歩く。秋とはいえ夜になったら寒くって、セーラー服じゃ凍えそうだ。母の寝室のクローゼットに、お気に入りのダッフルコートがしまってあるのを思い出す。
……いやだ、家に帰りたくない。風邪をひいてしまえ、私なんかどうだっていい。
(そうだよ、私なんかどうだっていいじゃん。一日くらい、誰も気にしないでしょ)
それに、一日経てば帰りたくなるかも。明日になれば、きっと辛くて帰りたくなるはずだ。
明日になれば、私も───
───ダン! と静寂を撃ち抜く銃声が、眠る住宅街にこだました。ようやく思い出す、目覚ましの銃声だ。気のせいかと思って忘れてた。
音は、たぶん近い。そこのハトヤ、駄菓子屋の角を曲がった先で鳴った気がする。
(まぁ銃じゃなくて、花火とか……なのかな)
もうすっかり秋だけど、銃よりは現実味があるだろう。でも、今は深夜だ。非日常を期待してしまう、本当に銃かもしれない。
私は怖いもの見たさで、こっそりと様子をうかがってみた。
───開けた道路の中央線に、少女が突っ立っている。私と同じ中学校のセーラー服を着ていて、背丈は私より少し高い。後ろ姿では、誰だか分からない。真紅のスカーフと桜色の長髪が夜風になびく、彼女の背から光の粒が夜空に散っていく。髪をかき上げた手には、拳銃が握られており、少女の足元には、人が、倒れている……
見慣れた信号が点滅している、消え光り消え光るは夜の常。少女の首が、ぐるり。
「ィッ─────────!」
とっさに駄菓子屋の裏に隠れる、口を押さえて息を殺す。見てはいけないものを見てしまった、びっくりして心臓がドキドキする。
人が、人を殺していた。おそらく銃で、ここは日本だぞ、ありえない。同級生が? 虚構造物なら納得できる、異常な夜だ。期待通りの期待外れ、なんだこれは? まるで、夢の中のような───
「何してんのぉ、シッキー♡」
ひとさし指でつんと、ほっぺをつつかれた。殺人現場の方からだ。想定外の接触に体はブルルと震え、無意識のうちに素早く距離をとった。
「…………ユカ?」
それは、私の親友、ユカの顔をしていた。桜庭優香、小学校の頃からの友達で、今でも一緒に下校するほど仲がいい、ただ一人の親友だ。おしゃれで、スタイルも良くて、友達が多くて、中学に入ってからはなんかキラキラしてて……でも二人になると小学校の頃みたいな、ちょっぴり性格の悪い女の子に戻ってくれる、そんな子なんだ。
だから、これはユカじゃない。
───華奢な身体に似合わぬ大きな天翼が、少女の背には生えていた。道幅が細いせいで翼の動きが窮屈そうだが、雲のようにふんわりとした翼はその先端に至るまで優雅な生命力を帯びている。鳥類の筋肉質な翼とは決定的に違う、なめらかで溶けそうな翼の質感が美しくもあり奇妙でもある。
天使だ、ユカの顔をした天使だ。私の親友じゃない。頭上には派手な光輪が浮かび、茶髪だった髪は薄い桜色に染まっている。これはユカじゃない。私と同じセーラー服を身にまとい、片手に握る拳銃を隠そうともしない。
(ユカじゃない、ユカなわけない、だって……ユカが天使で、人殺しって、そんなわけ……)
「ねぇこの髪、綺麗でしょぉ? 私にピッタリだと思うんだよねぇ」
舌なめずりしながら、クルクルと髪を指に絡める。ユカの癖だ。頬もほのかに桜色、私を見る目が艶めかしい。
「あぁあとみてみて! この真っ白な翼! ちょっとだけなら空も飛べちゃうんだよ〜?」
同じようにみてみてって言われて、可愛いシュシュとか変な文房具とか見せられたっけ。それで会話の流れで髪の結び合いっことかして、上手くできて褒められたりして……
「でもねでもねぇ、いっちばんサイコーなのはぁ───この拳銃! 細剣も大好きだけどぉ、便利なのはこっちかな〜? シキはさ、何の武器持ってるの?」
ユカは流れるように、私の眉間に銃口を突きつけた。迷いなく発砲、ダン! と銃声、ビリリと鼓膜が震えて撃痛。目をギュッと閉じた私は思いっきりのけぞって、尻もちをつくや否や額を擦るように確認した……血は出てない、血は出てない……
「キャハハハハハ! キャハハハハハ! やだなぁシキはさぁ、空砲に決まってるじゃん! 大事で大好きな親友を、銃で殺すわけないって〜」
「な、なんなの……夢、夢なの? ユカは、こんなこと……あなた、誰?」
「……ふーん、じゃあ『あの日』の続き、しよっか」
あの日……あの日? あの日ってなんだ、なんだなんだ、思い出せない、私の顎にしんと細剣の先が当てられる、そういえば今日のお昼の記憶がない、なぜだか昨日の記憶もない、一昨日もその前の日も……
喉をごくりと鳴らして、私はユカを見上げた。ユカは満足げな笑みを浮かべて私に剣を向けている、心から嬉しそうに私を見つめている。
『あの日』の、再演。
「───ねぇシキ、一緒の高校に行かない?」
真っ白な脳内に、どす黒いペンキがべっちゃりと、『あの日』が呪いのようにへばりつく、否が応でも思い出す。
狂ってしまったユカの笑顔に、取ってつけたような『あの日』のセリフ。あぁそうか、ユカは怒ってるんだ。
私とユカは『あの日』初めて、仲違いした。喧嘩にすらならなかった、ちょっとのすれ違い。まだ仲直りできてない、最大の悩みのひとつ。
なんで、忘れてたんだろう。
「ま、待って。あれは違うの、ユカを嫌いになったとかそういうんじゃなくて」
「違うよ、全然違う。シキはそんなこと言わない。『自分の未来は自分で決めたいの、だからそういうのはやめよう』……ほら、言ってよ。言わなきゃ、ねぇ?」
鋭く尖った細剣の剣先がじりりと喉元に接近してくる、私になす術はない。死ぬのか、ここで……恍惚としたユカの笑みを、眉をひそめて見つめる。
死ぬわけにはいかない、けど……これが夢なら、ユカに殺されるのも仕方ない。それだけ私はユカを傷つけてしまったのだ。でも、夢だからって、命をただ捨てるのは嫌だ。夢なんだから、ユカと仲直りしたい。言葉を尽くして、気持ちを伝えよう。
きっと、伝わるはずだ。
「ごめん、私がそんな事言う資格、なかった。今でもすごく、悩んでるの。だから、もしよかったら、一緒に考えようよ? ねぇ───」
「はは……ハハハハハ!! やだやだやだやだやだやだぁ!! ッやめてよ、ねぇやめてよねぇ! 何も、何も分かってないじゃん!! あーおかしっ」
───グッサリと、白銀の細剣がシキの喉を貫通した。ひゅんと引き抜かれて、血が花火のように噴き出す。尻もちをついた少女の首は糸が切れた人形のようにぶらつく。
意識のない唇に、血生臭い何かが触れた。嗚呼、死んだ顔だ。




