第一話 家出零時
明日なんか来なければいい、そう思ってた。
朝が来るなんて、当たり前だと思ってた。
「なに、あれ……」
───ゴツゴツと腫れ上がった、赤い月。奇妙で不気味な世界の象徴。
渦を巻いた夜風が冷たい。千本鳥居の向こうの境内。天を衝く十字架は天使を磔にしている。
もうこの夢から、目覚めることは出来ないのだと、私は何故か知っている。
「こわいよ、こわいよ……」
此処が何処かも分からぬまま、うずくまる私の背後に、人影。
枯れ枝のような指が、私の首を掴んで───
◆◇◆
ダン! と銃声が聞こえて、私はベッドから飛び起きた。悪夢を見ていた記憶だけがぼんやりと残っていて、気分は虚ろ。脂汗でびっしょりなセーラー服だけが恐怖と不安を覚えている。
(待って、銃声……外、だよね)
若干の吐き気と息苦しさを感じながらも、一応外の様子を確認してみる。外は真っ暗で、家に帰る者も見当たらない、深夜だ。
夜はすでに始まっている。
「……ぁあ、やっちゃったぁぁ」
中学から帰ってきて、すぐ寝てしまったんだっけ。悪いことがあった日はいつもこうだ、ぐずぐずと布団の上で悩んで、そのままぐっすり。
考えなきゃいけないこと、いっぱいあるのに逃げてばっかりだ。
机の上には白紙の進路希望調査書、風に吹かれて軽そうにひらひらと。私はピシャンと窓を閉めた。
「……うるさいなぁ」
自分で閉めたくせに、なんて一人ツッコミする気力もなく、私は大げさにため息をついた。
「───自分の未来のこと、なんで簡単に決められるの?」
つついたら割れそうな心から、小さな悲鳴がぽつんと弾き出される。私だって悩んでるのに。
悩んでるだけで、精一杯だ。
何の願望もないから、何も決められないし、何のやる気もないから、何もやりたくない。
言い訳に言い訳を重ねて、身体が石のように重くなる。動けない、心が動かない。
ぐだぐだと、ぐじゃぐじゃな自分をなじって、小さな傷を痛がって、怖い怖いとうずくまる。現実がどんどん嫌になっていく。
私は私が、大嫌いだ。
(…………明日、までか)
机に座らず、うつむいて直立不動。首吊り死体みたいだ、今の私って。死んじゃえばいいのに、私なんて。
死にたいなんて死んでも言わないけど、けれど……
「───明日なんか、来なければいいのに」
白紙の紙に、小さくつぶやいた。途端、見ていた夢が鮮明に思い出される。巨大な十字架、千本鳥居……異常な、赤き月。いつも通りの私の部屋に、枯れたススキの擦れる音が聞こえる。
……ダメだ、もう寝よう。寝て終わりにしよう。部屋の明かりを消す、部屋が暗闇に満ちる。ベッドが、私を明日へ誘うように、夜に染まっている。
寝てしまえば、明日だ。
たまらずベッドの前にうずくまって、耳を塞ぐ、感覚を遮断する。時計の針が動く音だけが、消えない。
まともになりたい、私はどこか壊れてる。クレヨンで描かれた走馬灯が、脳裏に浮かんでは渦を巻いて消えていく。生きなきゃいけないのが、辛い。
こんこんと、部屋のドアがノックされた。
「……シキ? ただいま、起きてる?」
───母だ、母が帰ってきた。時計の針は夜の11時を指している。いくつかの家事が頭の中を駆け巡る、何も終わってなどいない。まずい、まずいまずい。こんな深夜に説教か。とりあえず立ち上がって、おかえりと伝える。
部屋のドアは遠慮なく開かれる、廊下の明かりを背にした立ち姿は幽霊のようだ。ホラー映画のワンシーンを思い出す。
「ご、ごめんなさい」
つい謝罪を口にしてしまった、とても悪いことをした気がする。なぜだかママが怖い。
ママはじっと私を見つめる。じっと、私の服を見つめている、脂汗でびっしょりなセーラー服を見つめている。汚いシワもおまけだ。
「あんたそれどうすんの、明日着てくの?」
「ごめん、なさい」
「……はいはい、もういいわ。それより、書けたの? 締め切り明日でしょ」
───机の上には、白紙の進路希望調査書。
言われた瞬間、さーっと血の気が引いた。そうだ、あの母が帰ってきてしまったんだ。幽霊のように見えた母が、今では死神に見える。きっと寿命を告げに来たんだ、明日で私は死ぬ。子どもの私が死んで、大人の私に正しく生まれ変わるんだ。
自分の未来で、迷う意義を失くすんだ。
不確かな未来を、確定しなきゃいけない。どうしようもない不安と、しょうもない苛立ち。
私だって、悩んでるのに。
「……書けてないのね、じゃあ貸して。この前話し合った高校でいいでしょ。お母さんが全部書いちゃうから」
「えっ!? やだ、嫌だ!」
「はぁ? シキも納得してたじゃない、成績で考えたらあんなもんでしょ」
「だって……ママが言うから……」
ひどい、何だそれ。私の未来なのに。『正しい』っていう理由だけで、私に正解を押しつけてくるんだ。
話し合いの時、「本当に嫌なら後で変えればいいじゃない」なんて言われたっけ。その『後』っていつだよ、結局は規定路線になるんじゃないか。
(……何も知らない私に、選ぶ権利なんか無いって言うの?)
心に閉じこめていた怒りが、母へと逃げ出していく。でも、言葉が出ない、『間違い』だって分かってるから……ずるい、大人はずるい。
うざい、消えちゃえよ。
「はぁ……そもそも高校選びなんて適当でいいの。どうせどこ行っても大して変わんないんだから、しかもシキは行きたい高校ないんでしょ? じゃあいいじゃ、」
───母を、廊下の壁に突き飛ばした。反射的に体が動いた、やってしまった、足が小刻みに震える、涙があふれて止まらない、どうしよう、どうしよう、こんなことしたのは初めてで、もう……もう!
「───わかんないじゃんッ! 未来の事なんて、誰にもわかりっこない!」
それは曖昧な暴論で、願望がない言い訳で、子供じみた悲鳴だった。でも、これが私の全てだと感じた。
おずおずと顔をあげる、ママは今まで見たこともないような、うろたえた表情をしていた。メイクが一筋流れ落ちて、しわしわの濃いくまが露わになる。血色も悪く疲れきっていて、私なんかよりよっぽど大変な一日を過ごしたのが分かる。私なんかよりも、今日を頑張ったのだろう。
ママはカッコいい大人だ。
───私はちっぽけで、ひどい娘だ。
「ちょっ、シキ! 待ちなさい!」
階段を転げるように駆け降りる、涙が止まらない、混乱している、混乱している。
よかった、靴下は履いたままだ。そのまま外に逃げてしまおう。母の顔なんてもう見たくない、靴をガサツに履きながら嗚咽でむせた。
涙は止まらないのに頭は冷静で、あぁ母は追いかけてこないんだなと、安堵と失望が反発しあう心で乱暴に玄関の扉を開く。
なみだの夜空は綺麗で、自由だった。
◆◇◆
明日の仕事のために、早く寝たかった。それだけだったのに、まさか娘とあんな事になってしまうとは。5分くらい動けなかった、怒りと困惑がおさまって、後悔と心配が胸を襲う。自分が何を言ったのかすらよく思い出せない、正しい助言をしていたつもりだったのだが、何か間違っていただろうか?
いや、間違っていたのだろう。あの子が怒っているところなんて初めて見た。怒るよりも先に泣いてしまうあの子が、私を突き飛ばしたのが事実で、異常事態だ。
「とにかく……警察」
こういう時の正解が分からない、けれど娘が心配でならない。夜は危険だ、何があるか分からない。焦る気持ちを抑えてスマホのロックを解除し、神にでも祈るように1、1、0と押した。
「あの、も───」
『おかけになった電話番号は今晩使われておりません。繰り返します、おかけになった電話番号は今晩使われておりません。繰り返します、おかけになった電話番号は今晩使われておりません。繰り返します……』
───意味が、分からなかった。耳から離したスマホに目をやれば、110が確かに表示されている。
急いでシキにも電話をかけてみる、同じだ。『おかけになった電話番号は今晩使われておりません。』と言われるばかり。
充電は切れかけだが、電波は良好だ。私のスマホがおかしいんじゃない、とりあえずネットで、検索を……
(……ぁあ、あれ? なんだか、眠いわ……)
左手からスマホが、すとんと落ちた。眠い、力が入らない、眠い眠い、視界がぼやける……眠い眠い眠い、眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い、ねむい。
そんな、ばあいじゃ、ないのに。
バタンと、頭から倒れた。大粒の涙を流しながら、穏やかに眠る。
落としたスマホのホーム画面では、笑顔の母娘が仲良くピースをしている。娘の顔に涙が落ちる。
───『夜』は、すでに始まっている。
十話ほど(できる限り)毎日投稿します。第五話まで読んでいただけたら幸いです。




