第三話 よわい14
重い目蓋を、ねっとりと開く。まつ毛が粘着している感触に、泣いて泣いて腫れぼったいのを思い出す。
寝起きの喉はガサついていて、声が上手く出ない。乾燥している、唇を舐めて湿らせた。
(ここ、どこ?)
私が横たわるベットは埃っぽく、少し腐った匂いがしている。私が立ち上がろうと体勢を変えると、錆びているのかギーギーと鳴る。ベットを囲むカーテンを開けて、おそるおそる外の様子を確認してみた。
点滴のスタンドが無造作に放置されている、部屋の出口はベットが楽々通れるほど広い、大部屋はカーテンで4つに区切られている。配管が丸見えの天井からは水がポタポタと落ちる、割れた窓ガラスから吹き込む風が冷たい、コンクリートの壁はところどころ鉄骨がむき出しになっている。
「は、廃病院だ……」
お化け屋敷のイメージしかない場所で、私はすやすやと寝ていたらしい。
(…………なんで?)
私はいま、手術衣……前開きの、青くて薄くて寒いやつを着ている。廃病院で、手術衣?
手術を受けた記憶はない。寝て、起きたということは、廃病院に泊まったということだろうか。たしか私は……家出をしたはずだ。家出をして、それで……
「おもい、だせない……」
私はユカと喧嘩していて、それなのにやりたい事が分からなくて、進路希望調査書は、白紙のままで。母親……母親って、誰だっけ。
どうしよう───ユカのことしか思い出せない。恐ろしくなって、唇を噛む。痛みが薄い、痛みが薄い? ほっぺたをつねってみる。
「……痛くない? え、痛くない!」
どれだけ強くつねっても引っ張られている感覚はあるが、痛みが薄い。しっぺとかデコピンとかしてみても痒いくらいだ。思いっきり太ももを殴ったら、流石に痺れるような痛みを覚えた。でも、その痛みもすぐに消えた。
どうやら、夢らしい、たぶん。
「まぁ夢なら、大丈夫だよね。きっと……」
それに、ほら、夢を見てれば明日にならない。『明日なんか来なければいい』と、そう願ったのは私だ。よく覚えている。
……母親の名前すら思い出せないのに、顔も、不鮮明なのに。ママが流していた涙だけは思い出せる、ズキズキとフラッシュバックする。心が溺れていく、夜の病室。
私は私が大嫌いだ、そんな感情すら、思い出せるのに。
(夢の中ならいっそ、全部消して欲しかったな)
……なんてね、全部忘れてしまったら私はもう私じゃなくなる。それじゃあ何の意味もない、私は私でありたい。
───私は、変わりたいんだ。消えたいわけじゃない。
◆◇◆
こんなところに居ても怖いだけなので、私は病室の外に出ることにした。
床に裸足をそっと置く、氷のような冷たさを足裏になじませる。靴はないし、靴下も制服もない。布一枚は頼りなくて、寒い。気温は何度だろう、痛みがないのに寒さは感じるのか。それとも、とんでもなく寒いのにその『寒さ』を感じ取れていないのだろうか。
胸に風が入ってきて、スースーする。手術衣の紐をきつく縛った。
少し逡巡したのち、部屋を出る意思を固めた。カーテンを必要な分だけ開けて、身を細めて隙間を通る。そろりそろりと病室を出る。
「さむい……」
幽霊の冷たさを感じる、廃病院の廊下を歩く。裸足にタイルの破片がかする。
窓の外は普通の市街地だ、でも家の灯りは何処も付いていない。外灯がぽつぽつと、夜道を照らしている。
「外灯より、夜空の方が明るいな」
満天の星が夜空を埋め尽くしている、赤みがかった星ばかりで少し不気味だ。しかしその中で、満月だけは蒼い。蒼き月。
赤い月ではないと安堵する、赤い月になったら……全部終わってしまう、気がする。
「……ここ、どこなんだろう」
真っ暗な、ながいながーい廊下を歩く。先が見えない、夢か現実か、左か右か。立ち止まりたくなる、分からずに前に進む。いや、前は後ろかもしれない。今日に逃げているのか、明日に逃げているのか、分からない。
気づけば足の裏が傷だらけだった。痛くない、いたくない。
前へ、何も考えずまえへあるく。痛くない、いたくない……いたくないのに、なみだがとまらない。たちどまる、なみだをぬぐう。なみだがとまらない、とまらない……
かえりたい、どこかにかえりたい。あしたがこわい、ひとりがこわい。わたしってわがままだ。なにもかもこわいんだ。
なんでないてるのか、わかんない。不安、赤い月。
だれか、たすけて……
「───お姉さん、泣いているのですか?」
幼い声が背後から聞こえた、私を心配している、大人びた声だ。果てなく暗い廊下の奥で、非常口の三文字が光る。ここは廃病院、幽霊の冷たさを感じる。人間は逃げている。
どっどっどっ、心臓が肋骨を叩く。だれか、誰だ? たすけて、不安だ。廃病院に、人がいる? 安心だ、心配だ。殺されるかもしれない、殺されるかもしれない?
「あっ、すみません。こんな夜に、自己紹介もなく。私は天使じゃ、ないですよ?」
生唾を飲み込む、ゴクリと喉が鳴る。鳥肌から汗が噴き出るようだ。私は殺される恐怖を何故か抱きながら、ゆっくりと振り返った。
子どもがいた、ぬいぐるみを抱えている、小学5年生くらいの女の子だ。私と同じ手術衣を着ている。本当に泣いている『お姉さん』を見て、女の子は目をギョッとさせた。
「泣いている方をお見かけするとは、思いませんでした。どうされたのですか?」
「いや、その……帰りたくなっちゃったの。たぶん」
「あらら、残念ですがお姉さん、お家には帰れませんよ? 外は天使の世界ですから」
よく分からない理屈を、私の脳はすんなりと理解した。天使に会えば、私は殺されてしまうだろう。殺されて……
「泣かないでください、お姉さん。ここは、安全ですよ? 50年ほどここに居ますが、天使が襲ってきたことは一度もありません。だから、その、私とお話しませんか?」
女の子は隠れるようにウサギのぬいぐるみをギュッと抱きしめて、長い耳の隙間から私の顔を覗いた。怯えているようだが、興味もあるようだ。
この子なりに、気を遣ってくれているのかもしれない。
「じゃ、じゃあ……50年って、どういうことですか?」
女の子は、お人形さんみたいな見た目をしている。長い黒髪は墨に染まったように黒く、手術衣の隙間から覗かせる薄い身体は色白だ。不気味と言えば不気味だが、50歳には見えない。
「言葉通りの意味です。ここで50年、一人で過ごしています」
「……年齢とか、どうなってるんですか?」
「小学6年生です、なので敬語はやめてください。お姉さんが使うべきではないです」
「? だって、いま、50年って……」
「なるほど、そうですか。何も知らないのですね」
女の子は大仰に咳払いをし、混乱する私に淡々と告げた。
「これは、私の言葉ではないのですが……『夜は明けず、朝は来ず、時は経たず、夢は終わらず。いま、この夜は───明けない夜、なのです。貴方が望んだとおり、私が望んだとおり、永遠に明日は来ません』……不老のまま、ずっと。残念ですが、逃げ道はありません」
慣れた口調で、少女は告げる。『明けない夜』に明日はない。それは必然の真理で、自業自得な自明の理。
───明日なんて来なければいいのに、そう願ったのは……私だ。
ブツンと、非常口の灯りが消えた。




