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第八話 黒蝶は糸をほどく

 黒蝶は、倉庫街の屋根の上にいた。


 昼間、マーレが見つけた非公式の荷運び依頼。


 黒い羽根印が残っていた場所。


 夜鴉商会の名は、まだ表には出ていない。


 だが、黒蝶は知っている。


 あの印が、ただの飾りではないことを。


 倉庫街は静かだった。


 閉じた扉。


 積まれた木箱。


 古い滑車。


 壁に残る荷縄。


 そして、風の流れを乱す何か。


 黒蝶は屋根の縁に手を置き、身を低くした。


 いる。


 誰かがいる。


 前回ほど露骨ではない。


 けれど、静かすぎる。


 風が通りにくいはずの場所で、細く揺れる気配があった。


 糸。


 黒蝶は腰から小さな弾を一つ抜いた。


 糸見え弾。


 名前は雑だ。


 だが、役には立つ。


 短い射出音。


 弾が倉庫の壁際で割れた。


 銀色の粉が、風に乗って薄く広がる。


 月明かりの中で、細い線がいくつか浮かび上がった。


 屋根の縁。


 倉庫扉の前。


 荷縄の影。


 黒蝶がいつもなら着地に使いそうな木箱の上。


「……丁寧だな」


「見えるようにしてきたか」


 声は、倉庫の影から聞こえた。


 灰茶のフード付きロングコート。


 腰に吊るした糸巻き。


 指先に光る細い金具。


 罠師スネアが、古い木箱にもたれて立っていた。


「前より細かい」


 黒蝶が言う。


「前と同じ縫い目で二度縫うほど、雑じゃない」


「職人みたいなことを言う」


「仕事だからね」


 スネアは薄く笑った。


 黒蝶は屋根から降りない。


 スネアも近づかない。


 互いに、相手がどこで動き出すかを待っている。


「外套、直したんだ」


「同じ手は食わない」


「いいね。前より留めにくそうだ」


「留めさせる気はない」


 黒蝶は短く返しながら、周囲を見る。


 銀粉で見える糸は、全部ではない。


 見えている糸。


 見せられている糸。


 見えない糸。


 その三つがある。


 スネアは、もう黒蝶の風を知っている。


 糸見え弾も見た。


 なら、粉が付くことまで想定しているはずだ。


「来ないのかい?」


「行く理由を探している」


「偽依頼票なら、中にあるよ」


 スネアが倉庫の扉を指差す。


 黒い羽根印の封蝋。


 そのついた木箱が、扉の奥にわずかに見えた。


 餌だ。


 分かりやすい。


 だが、放置はできない。


 黒蝶は、あえてワイヤーを飛ばした。


 金具が屋根の梁に噛む。


 その瞬間、銀粉のついた糸が三本、かすかに跳ねた。


 黒蝶は引かれない。


 ワイヤーを途中で外す。


 糸が空を切る。


「読んだか」


「見えた」


「見える糸だけが糸じゃない」


「だろうな」


 黒蝶はもう一つの糸見え弾を撃った。


 銀粉が低く広がる。


 しかし、今度は糸の半分ほどしか浮かばなかった。


 黒い。


 粉を弾くように処理された糸が混じっている。


 スネアの笑みが深くなる。


「学ぶのは、そっちだけじゃない」


「面倒だな」


「褒め言葉として受け取るよ」


 次の瞬間、屋根の縁から細い糸が跳ね上がった。


 黒蝶は身を沈める。


 足元の糸を避ける。


 その先に、さらに糸。


 前回より細かい。


 逃げ道に糸。


 避けた先に糸。


 降りる場所に糸。


 飛ぶ蝶を捕まえる網ではない。


 飛ぶ先を、一つずつ狭める縫い目だ。


 黒蝶は外套を翻し、倉庫の壁へ落ちる。


 スネアの指が動く。


 低い糸が、外套の端を絡め取った。


「留めた」


 スネアが言った。


 だが、次の瞬間。


 黒い外套の端だけが、糸に残った。


 黒蝶の体は、すでに横へ抜けている。


「外套だけだ」


 黒蝶は壁を蹴った。


 スネアが、少しだけ目を細める。


「仕立て直してきたか」


「捕まる趣味はない」


「なら、ほどくしかないね」


 黒蝶は答えず、倉庫の内側へ滑り込んだ。


 木箱。


 吊り荷。


 滑車。


 古い荷縄。


 そして、細い糸。


 黒蝶は足元へ風を流した。


 銀粉が、床近くを薄く滑る。


 スネアは糸で位置を読む。


 なら、読ませるものを増やせばいい。


 黒蝶がいない場所で、糸が揺れた。


 スネアの針が走る。


 そこには誰もいない。


 黒蝶は別の柱の影から、粘着弾を撃った。


 弾はスネアではなく、糸の支点に当たる。


 糸が壁に固定された。


 スネアが引く。


 動かない。


「またそれか」


「便利だからな」


「便利は、別の場面で不便になるんじゃなかった?」


「誰の言葉だ」


「さあね」


 スネアは固定された糸を即座に切った。


 判断が早い。


 だが、黒蝶はそれも見ていた。


 切られた糸が、落ちる途中で古い荷縄に絡む。


 黒蝶が風を送る。


 荷縄が揺れ、天井の滑車が鳴った。


 空の木枠が落ちる。


 スネアは横へ跳んだ。


 その着地点に、銀粉が舞う。


 細い糸が浮かび上がる。


 スネアの足が止まった。


「……ほどく側も、上手くなった」


「捕まるのは好きじゃない」


「だろうね」


 スネアは笑った。


 けれど、その笑みは少し薄い。


 黒蝶はスネアの背後へ回っていた。


 ドリームガンを抜く。


 短い射出音。


 眠り弾が飛ぶ。


 スネアは避ける。


 避けた先には、粘着弾で固定された糸。


 足が一瞬、止まる。


 黒蝶は二発目を構えた。


 スネアは両手を軽く上げた。


「ここまでかな」


「諦めるのか」


「引くんだよ。雇われ仕事で命までは縫い込まない」


「夜鴉は許すのか」


「俺は夜鴉じゃない。外から呼ばれただけの糸屋だ」


 スネアは肩をすくめた。


「それに、今日は俺の負けだ。外套も、粉も、風も、思ったより面倒だった」


「次は?」


「次があるなら、もっと丁寧にやる」


 スネアが一歩下がる。


 黒蝶は追わない。


 まだ、倉庫の中には糸がある。


 偽依頼票の木箱も残っている。


 優先順位は、そちらだ。


 その時だった。


 重い音がした。


 倉庫の扉が、外から閉じられた。


 続けて、屋根裏から鉄網が落ちる。


 黒蝶がワイヤーを飛ばしそうな梁へ、重い網がかぶさった。


 スネアの顔から、笑みが消えた。


「……乱暴な縫い目だな」


 倉庫の奥で、別の声が響いた。


「逃がすからだ、糸屋」


 木箱の陰から、大柄な男が現れた。


 背が高い。


 肩幅が広い。


 首が太い。


 腕も太い。


 つまり、全体的に太い。


 その後ろに、数人の男たちが続く。


 棍棒。


 短剣。


 厚手の手袋。


 口元には、防毒布。


 黒蝶は、ゆっくりと視線を向けた。


「夜鴉か」


「だったらどうする」


 大柄な男は拳を鳴らした。


「外部の糸屋に任せるから、いつまでも遊ばれる。支部長の言う通りだな」


 スネアが舌打ちした。


「聞いてないよ、こんなの」


「お前に聞かせる必要はねえ」


 男は黒蝶を見る。


「筒。煙。粘る弾。糸を見る粉。飛ぶ道具。全部聞いてる」


 男たちが散る。


 出口。


 木箱の上。


 屋根へ上がる梯子。


 黒蝶の逃げ道が、雑に、しかし確実に塞がれていく。


「近づけば終わりだ。筒を抜く前に殴る。煙を出す前に掴む。飛ぶ前に落とす」


 男が笑った。


「道具屋が。道具を使えなきゃ、ただの細いガキだろ」


 黒蝶は、ドリームガンに触れかけた手を止めた。


 スネアの糸。


 落ちた鉄網。


 閉じた扉。


 囲む男たち。


 なるほど。


 これはスネアの罠ではない。


 スネアごと巻き込む、別の罠だ。


 黒蝶は、ゆっくりと手を下ろした。


 ドリームガンから、指を離す。


 大柄な男の笑みが深くなる。


「終わりだな、黒い蝶」


 黒蝶は短く答えた。


「試すか」


 倉庫の空気が、わずかに冷えた。

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