第九話 ギルド職員は拳を握らない
倉庫の空気が、わずかに冷えた。
閉じられた扉。
落とされた鉄網。
まだ残るスネアの糸。
そして、黒蝶を囲む夜鴉の男たち。
大柄な男は、拳を鳴らして笑っていた。
「試すか、だと?」
男の背後で、部下たちがじりじりと間合いを詰める。
棍棒。
短剣。
厚手の手袋。
口元の防毒布。
眠り弾も、煙幕も、粘着弾も、黒蝶の道具はほとんど知られている。
ワイヤーで飛ぼうにも、頭上には鉄網。
壁へ逃げようにも、スネアの糸が残っている。
道具を使えば、その瞬間を狙われる。
大柄な男は、それが分かっていた。
「道具屋は道具屋らしく、箱の中にでも入ってりゃよかったんだよ」
黒蝶は答えない。
ドリームガンから手を離したまま、両手を軽く開いている。
拳は握らない。
殴るためではない。
止めるために、開いている。
それを見て、大柄な男が鼻で笑った。
「降参のつもりか?」
「違う」
「なら何だ」
「手加減」
空気が、一瞬だけ止まった。
次に動いたのは、部下の一人だった。
「舐めやがって!」
棍棒を振り上げ、真正面から突っ込んでくる。
黒蝶は避けた。
大きくではない。
半歩。
ただ、それだけ。
棍棒が空を切る。
黒蝶の指先が、男の手首に触れた。
強く掴まない。
押さえない。
ほんの少し、肘の向きを変える。
「うおっ?」
男は、自分の勢いのまま前へ崩れた。
そこへ二人目が飛び込んでくる。
黒蝶は倒れかけた男の肩を、軽く横へずらした。
二人目の進路に置くように。
「ぐえっ!」
「邪魔だ、どけ!」
二人が絡んで転がる。
三人目が短剣を抜いた。
黒蝶は刃を受けない。
手首の外側を払う。
刃の向きがずれ、短剣は木箱の角に刺さった。
「なっ……!」
男が引き抜こうとした瞬間、黒蝶の足が膝裏に置かれる。
蹴らない。
ただ、立てない場所に足を置く。
男は片膝をついた。
殴られてはいない。
斬られてもいない。
だが、三人はもう動きづらい。
倉庫の隅で、スネアが小さく口笛を吹いた。
「……筒が本体じゃないのか」
大柄な男の笑みが消えた。
「てめえ、道具屋じゃねえのかよ」
「道具を使うには、身体が要る」
黒蝶は短く言った。
その声は静かだった。
怒ってはいない。
まだ。
「囲め!」
大柄な男が怒鳴る。
部下たちが、今度は一斉に動いた。
正面から二人。
横から一人。
背後の木箱を越えて、もう一人。
黒蝶は下がらない。
足元に残る銀粉。
床に落ちた棍棒。
切られた糸。
吊り荷の縄。
積まれた木箱。
全部を見る。
一人目の腕を流す。
二人目の足元へ、落ちた棍棒を転がす。
三人目が踏み込んだところで、黒蝶は外套を翻した。
視界が一瞬だけ黒くなる。
「どこだ!」
「ここだ」
黒蝶は、男の背後にいた。
粘着弾が、男の手袋と木箱の角をまとめて止める。
「いつ撃った!?」
「さっき」
「さっきっていつだよ!」
答える必要はなかった。
黒蝶は次の男の肩をずらし、さらに次の男の足を払う。
倒れた男が、別の男の進路を塞ぐ。
倉庫の床に、夜鴉の部下たちが次々と転がっていった。
殴られてはいない。
だが、起き上がれない。
起き上がろうとすると、仲間の体が邪魔になる。
手をつこうとすると、粘着液に触れる。
足を出そうとすると、糸が絡む。
強い腕も、重い体も、置き場所を間違えれば邪魔になる。
黒蝶は、それを少しだけ手伝っただけだった。
「くそっ、何なんだよこいつ!」
「細いんじゃなかったのかよ!」
「細いのは間違ってない」
黒蝶が言う。
「そこ認めんのかよ!」
部下の一人が叫んだ。
スネアが、肩を揺らして笑った。
「いいね。君たち、結構いい反応をする」
「笑ってんじゃねえぞ、糸屋!」
大柄な男が吠えた。
次の瞬間、男自身が踏み込んだ。
速い。
大きい。
重い。
ただのごろつきではない。
夜鴉支部の荒事担当。
力で人を黙らせてきた男。
その拳が、黒蝶の顔面へ伸びる。
黒蝶は受けない。
内側へ入る。
手首に触れ、肘をずらす。
だが、男は崩れなかった。
足腰が強い。
体幹も太い。
黒蝶の流しを、力で潰しかける。
「軽いな、黒い蝶!」
男が笑った。
近い。
近すぎる。
黒蝶は拳を握らなかった。
代わりに、開いた手のひらを男の鼻先へ押し込んだ。
ぱん、と軽い音がした。
「ぶっ……!?」
大柄な男の頭が、わずかに仰け反る。
倒れはしない。
骨も折れていない。
だが、鼻から血が垂れた。
目には、勝手に涙が浮かんでいる。
「……っ、てめ……」
怒鳴ろうとした声は、鼻に詰まってひどく間抜けに響いた。
倒れていた部下の一人が、思わず呟く。
「……みっともねえ」
「誰が言ったぁ!」
男が怒鳴る。
やはり、鼻声だった。
「近すぎる」
黒蝶は短く言った。
男の顔が怒りで歪む。
鼻血を拭い、涙目のまま、さらに踏み込んだ。
拳が木箱を砕く。
乾いた音が倉庫に響いた。
だが、黒蝶はもうそこにいない。
男の背後。
吊り荷の縄の下。
先ほどスネアが切った糸が、床近くに残っている。
黒蝶は、指先で風を送った。
糸がわずかに揺れる。
男が踏み込む。
足が、半歩だけずれた。
ほんの半歩。
だが、重い体には十分だった。
黒蝶は手のひらで、男の胸ではなく肩を押す。
同時に、膝の外側へ足を置く。
男の踏み込みの向きが、さらにずれる。
「なっ――」
巨体が傾いた。
重い音。
大柄な男が、床へ落ちた。
黒蝶はその腕を取り、動けない角度で止める。
折らない。
だが、動かせない。
「立て」
黒蝶は静かに言った。
「……あ?」
「力が自慢なんだろう」
男の顔が赤くなる。
鼻血はまだ止まっていない。
目もまだ潤んでいる。
部下たちが見ていた。
スネアも見ていた。
男は歯を食いしばり、立とうとする。
だが、腕が使えない。
膝に力が入らない。
足元には、薄く粘着液が広がっている。
「てめえ……!」
「人を踏む足は、支えを失うと弱いな」
黒蝶の声は荒くない。
だからこそ、倉庫の中に冷たく落ちた。
その時、倒れた部下の一人が、木箱の奥へ手を伸ばした。
封蝋のついた箱。
黒い羽根印。
証拠を壊すつもりだったのだろう。
悪くない判断だ。
だからこそ、黒蝶は見ていた。
短い射出音。
粘着弾が、男の指と木箱の間で割れた。
「ぎゃっ!?」
「その手は使わせない」
黒蝶は言った。
倉庫の空気が、さらに冷える。
大柄な男が、初めて黙った。
◇
黒蝶は、木箱の封を確認した。
黒い羽根の印。
中には、偽依頼票の束。
さらに、名前の書かれた紙があった。
新人冒険者の名簿だった。
鉄級。
銅級になりたて。
借金持ち。
家族へ仕送りをしている者。
最近、報酬の高い依頼を探していた者。
狙いやすい者の名が、まとめられている。
黒蝶の指が、紙の端で止まった。
人を、紙の上で選んでいる。
弱い者から順に。
困っている者から順に。
黒蝶は、ゆっくりと紙束を畳んだ。
大柄な男が、床で呻く。
「それを持っていくな……」
「持っていく」
「俺たちが何者か分かってんのか」
「分かってきた」
黒蝶は、男のそばに黒い蝶の札を置いた。
それから、もう一枚。
偽依頼票の束の上に置く。
「朝になれば、全部見える」
黒蝶は短く言った。
スネアが壁にもたれたまま、軽く両手を上げる。
「俺は、その箱の中身までは知らない」
「信じろと?」
「信じなくていい。俺も夜鴉を信じてない」
黒蝶はスネアを見た。
スネアは笑っていた。
けれど、その笑みは少し薄かった。
「今日は引くよ。俺まで朝に返されたくない」
「次は?」
「さあね。糸は、切れることもある」
それだけ言うと、スネアは残った糸を引き、倉庫の影へ消えた。
黒蝶は追わなかった。
今は、証拠と夜鴉の男たちを残す方が先だ。
男たちは動けない。
逃げ道もない。
証拠も残っている。
あとは、衛兵とギルドが来ればいい。
黒蝶は屋根へ上がり、夜へ消えた。
◇
ギルドの自室。
複製体が戻ると、疲労がどっと返ってきた。
屋根を走った疲れ。
糸を避けた緊張。
近接戦で普段使わない動きをした重さ。
ただ、倒れ込むほどではない。
問題は別にあった。
「……肉弾戦は、やっぱり好きじゃないな」
リオは小さく呟き、机の上に回収した紙束を置く。
黒い羽根印の封蝋。
偽依頼票。
新人冒険者の名簿。
夜鴉の糸は、少しずつ見えてきた。
リオはメモを書く。
荒事担当。
道具封じ狙い。
近接戦闘、可能。
ただし、できれば避ける。
打撃は使わない。
相手の鼻は、意外とよく止まる。
そこまで書いて、ペンが止まった。
最後に一行だけ足す。
ミラさんには、外套が無事だったことを強調する。
リオは椅子の背に、もう一度もたれた。
「……寝たい」
切実だった。
とても切実だった。
翌朝、マーレに顔色と歩き方を見られる未来が、少しだけ見えていた。




