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第六話 張り巡らされた糸

 ルネリアの裏側には、金で動く者がいる。


 殴る者。

 運ぶ者。

 脅す者。

 消す者。


 そして、捕まえる者。


 夜鴉商会ルネリア支部の奥部屋で、男が一人、帳簿を閉じた。


 机の上には、昨夜回収できなかった偽依頼票の写しがある。

 その横には、小さな黒い蝶の札。


「また邪魔された」


 男は低く言った。


 向かいに立つ部下が、肩を縮める。


「雇ったごろつきは全員、衛兵に回収されました。偽依頼票も一部押さえられています」


「黒い仮面か」


「はい」


「噂ではなかったわけだ」


 男は指先で机を叩いた。


 一度。

 二度。

 三度。


「荷も止める。紙も止める。ごろつきでは役に立たん」


「では、荒事の者を?」


「いや」


 男は首を振った。


「殺すには早い。まずは見る。捕まえられるなら捕まえる。道具があるなら奪う」


 そして、部屋の隅へ視線を向ける。


 そこには、いつからいたのか分からない男が一人、壁にもたれて立っていた。


 色あせた灰茶のフード付きロングコート。

 布地のあちこちには継ぎ当てと補修跡があり、長く使い込まれた古布のように見える。

 腰には小さな糸巻きと針筒。

 指先には、銀色の細い金具。


 目元はフードの影に沈み、口元にだけ薄い笑みが浮いていた。


 男は、夜鴉の人間ではない。


 罠師スネア


 捕縛、監視、足止め、逃走経路の封鎖を専門に請け負う外部協力者だった。


「飛ぶ蝶を捕まえろ、か」


 スネアは細い指を鳴らした。


「できるか」


「糸を張る場所さえあればね」


「殺すな」


「いいよ。殺すより、留める方が得意だ」


 スネアは薄く笑う。


「よく動く相手は、まず動きを見る。どこで止まるか分かれば、捕まえるのは簡単だ」


     ◇


 その日の昼。


 リオは冒険者ギルドで、依頼票の控えとにらめっこをしていた。


 眠い。


 当然のように眠い。


 だが、今日の眠気は少しだけましだった。

 昨夜は黒蝶として動いた時間が短かったからだ。


 短かったのに疲れているのはなぜか。


 答えは簡単である。


 昨日までの疲れが残っているからだ。


「リオ」


「はい」


「目が死んでいるぞ」


「起きています」


「起きている死体みたいな顔だ」


「生きています」


 マーレは小さくため息をついた。


 その手には、数枚の依頼票がある。


「黒い羽根の印だが、ここ三日で似たものがいくつか出ている」


「非公式依頼ですか」


「ああ。裏掲示板の写し、外掲示板の紙片、倉庫街で見つかった封蝋。どれも小さいが、似ている」


 マーレは机に紙を並べる。


 偽依頼票。

 夜間の荷運び。

 依頼主不明の人足集め。


 リオはそれらを見下ろした。


 昼のギルド職員として見る紙。

 夜の黒蝶として見た印。


 二つが、少しずつ重なっていく。


「まだ、どこの誰かは分かりませんね」


「分からん。だが、偶然にしては多い」


 マーレの言葉に、リオはうなずいた。


 偶然にしては、多い。


 それは、黒蝶としても感じていたことだ。


 オルドが奥から顔を出す。


「今夜から外掲示板の見回りを増やす。衛兵にも伝えてある。ただ、裏通りまでは手が回らん」


「はい」


「妙なものを見つけたら、首を突っ込むな。まず報告だ」


 オルドの目が、なぜかリオを見ていた。


「……はい」


 リオは目を逸らさずに答えた。


 首を突っ込むな。


 昼のリオなら、その通りだ。


 ただし。


 夜の黒蝶なら、話は別だった。


     ◇


 その夜。


 黒蝶は、屋根の上にいた。


 黒い仮面。

 黒い外套。

 腰には、悪人を夢に落とすための小さな筒。


 いつものように、音は立てない。


 だが、今夜の路地は少し違った。


 外掲示板の前に、ごろつきが二人。

 偽の依頼票らしき紙を持っている。


 動きは雑。

 人数は少ない。

 見張りも甘い。


 それだけなら、ただの下手な悪事だ。


 しかし。


 路地が、静かすぎた。


 黒蝶は屋根の縁に手を置き、身を低くする。


 風が通る。

 その風の中に、かすかな違和感があった。


 糸。


 細い糸が、路地のあちこちに張られている。


 屋根の縁。

 壁の角。

 掲示板の裏。

 古い木箱の影。

 路地の出口。


 目立ちすぎる餌。

 少なすぎる人数。

 空きすぎた逃げ道。


 これは仕事ではない。


 釣り餌だ。


 黒蝶は、少しだけ息を吐いた。


 それでも、偽の依頼票を放置するわけにはいかない。


 黒蝶は腰のワイヤー具に指をかける。


 いつもなら、屋根から横へ抜ける。

 掲示板の陰へ落ちる。

 紙を持つ手を止める。


 だが、今夜は違う。


 試す。


 黒蝶は、あえて細いワイヤーを飛ばした。


 金具が、路地の奥の木箱へ噛む。


 その瞬間。


 張られた糸が、かすかに震えた。


「そこ」


 声がした。


 闇の中から、銀の針が走る。


 黒蝶は体を引く。


 針は外套の端を裂いた。


 黒い布が、夜の中で小さく舞う。


「へえ」


 路地の反対側。


 古い看板の影から、細身の男が現れた。


 灰茶のフード付きロングコート。

 継ぎ目の多い上着。

 腰に吊られた糸巻き。

 指先に光る細い針。


 男は、裂けた外套の端を見て笑う。


「噂より速いな、黒い蝶」


 黒蝶は答えない。


 代わりに、屋根の上から男を見下ろす。


「罠か」


「罠だよ」


 男は悪びれずに言った。


「俺はスネア。糸を張る仕事をしてる」


「夜鴉の者か」


「さてね。雇い主の名前を売るほど、安くはない」


 スネアは指を動かす。


 路地のあちこちで、細い糸が月明かりを拾った。


「飛ぶんだろ。消えるんだろ。眠らせるんだろ。いいねえ。どこまで飛べるか、見せてくれよ」


 黒蝶は、屋根から降りない。


 降りられないわけではない。


 ただ、いつもの降り方は使えない。


 屋根の縁に糸。

 壁の途中に針線。

 足元には輪罠。

 路地の出口には鳴子。


 強い。


 ではない。


 面倒だ。


 黒蝶は筒を抜いた。


 短い射出音。


 粘着弾が、路地の糸へ飛ぶ。


 だが、スネアは指を引いた。


 糸がたわむ。

 弾は空を切り、石壁に当たって弾ける。


「粘る弾。悪くない」


 次の瞬間、糸が鳴った。


 黒蝶の足元、屋根瓦の隙間から細い針線が跳ね上がる。


 黒蝶は後ろへ下がる。


 だが、その先にも糸。


 黒蝶は身を沈め、外套を翻して、わずかな隙間へ滑り込む。


 外套の端が、また少し裂けた。


 スネアが口笛を吹く。


「惜しい。もう少しで留められた」


「趣味が悪いな」


「仕事は丁寧だろ」


 黒蝶は周囲を見る。


 スネアは、黒蝶を目で追っていない。


 糸を見ている。


 いや、糸の震えを読んでいる。


 ワイヤーが引く振動。

 足が触れる震え。

 風が乱れる向き。


 それを、黒蝶の位置として読んでいる。


 なら。


 読ませればいい。


 黒蝶は左手を軽く開いた。


 風属性。


 普通なら速度や威力に使う力を、リオは違う形で使う。


 音を散らす。

 煙を流す。

 足を押しつける。

 そして、糸を揺らす。


 路地の奥。


 黒蝶がいない場所で、糸が揺れた。


 スネアが笑う。


「そこだ」


 針が走る。


 だが、そこに黒蝶はいない。


 揺らしたのは、風だった。


「……へえ」


 スネアの笑みが、少しだけ消えた。


 その一拍で、黒蝶は動く。


 煙幕弾。


 白い煙が、低く広がる。


 スネアは糸を読むために指を動かす。


 だが、煙の中で風が走った。


 一本。

 二本。

 三本。


 糸が、ありもしない足音のように揺れる。


「面倒なことを」


 スネアが後ろへ跳ぶ。


 だが、その先の糸はもう粘着弾で壁へ貼りつけられていた。


 動かない。


 引けない。


 罠が、罠として動かない。


「自分の糸に足を取られる気分は?」


 黒蝶の声が、背後から落ちた。


 スネアが振り返る。


 筒の先が、彼の肩口へ向いていた。


 短い射出音。


 眠り弾が当たる。


「……っ」


 スネアの体が揺れた。


 だが、完全には落ちない。


 彼は袖口の針で自分の腕を刺し、眠気を痛みでずらした。


「痛いのは嫌いなんだけどな」


 スネアは苦笑しながら、足元の糸を切る。


 粘着弾で固定された罠の一部を捨て、残った糸で体を引く。


 逃げる。


 黒蝶は追わなかった。


 いや、追えた。


 ただし、周囲にまだ何本の糸が残っているか分からない。


 追えば、別の罠を踏む。


 今はそれより、回収するものがある。


 黒蝶は足元に落ちた糸巻きを拾った。


 黒い羽根の印が刻まれた札が、そこに結ばれている。


 スネアは屋根の向こうから振り返った。


「黒い蝶。今日は仮縫いだ。仕上げは次にする」


「次も、飛ぶ」


 黒蝶は短く返した。


 スネアは笑い、夜の奥へ消えた。


     ◇


 ギルドの自室で、リオは机に突っ伏していた。


 戻ってきた疲労は、いつもより少し重かった。


 外套の端が裂けている。

 ワイヤー具にも、細い傷がある。

 そして机の上には、黒い羽根印の札が結ばれた糸巻き。


「……初めてだな」


 リオはぼそりとつぶやく。


 黒蝶を待っていた敵。


 黒蝶の動きを見ていた敵。


 そして、黒蝶を捕まえようとした敵。


 リオは眠気に耐えながら、メモを書く。


 罠師。

 糸で位置を読む。

 煙だけでは不十分。

 風で誤認させるのは有効。

 黒い羽根印、要警戒。


 そこまで書いて、手が止まった。


 最後に一行だけ足す。


 外套、修理。


「……ミラさんに怒られるな」


 それが一番、現実的な問題だった。


     ◇


 同じ頃。


 夜鴉支部の奥部屋で、スネアは椅子に座っていた。


 肩口には、小さな弾の跡。

 顔色は少し悪い。


 それでも、口元には笑みがある。


「捕獲は失敗か」


 帳簿の男が言う。


「半分は成功だよ」


「半分?」


「見えた。筒、粘着弾、煙。壁に一瞬立つ靴。あと、風」


 帳簿の男の目が細くなる。


「風?」


「たぶんね。糸を揺らされた。あれはただの風じゃない。黒い蝶は、飛ぶだけじゃないらしい」


 部屋に沈黙が落ちる。


 帳簿の男は、しばらく考え、それから静かに言った。


「なるほど」


 机の上に、黒い蝶の札が置かれている。


 男はそれを指先で押さえた。


「次は、羽を折れ」

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