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第二十三話 新たな影

 翌朝。


 ルネリアの街には、雨が降っていないのに湿った匂いがした。


 古い水路を開いたせいだ。


 夜鴉支部が裏荷運びに使っていた地下荷道。


 その一部が、職人街の旧水路とつながっていることが分かった。


 封鎖する。


 補修する。


 危ない場所は埋める。


 言葉にすると簡単だ。


 だが、現場は簡単ではなかった。


「……地下まで後始末ですか」


 リオは、旧水路の入口を見下ろして呟いた。


 石畳の一部が外され、下へ降りる階段が見えている。


 横には、夜鴉支部から押収された荷運び用の外套や防塵布、作業用ゴーグル、革手袋などが仮置きされていた。


 証拠品ではない。


 夜鴉の紋章を剥がしたあと、作業用に回されたものだ。


「上が片づいたら、下も片づくと思ったか?」


 マーレが言った。


「思いたかったです」


「現実は優しくない」


「最近、現実が強敵すぎませんか」


「倒せない敵だな」


 言っている場合ではない。


 地下からは、職人たちの声が響いていた。


 支柱を入れる声。


 石材を運ぶ声。


 水路の古い蓋を確認する声。


 ギルドからはリオとマーレ。


 衛兵も数名。


 そして、職人街の人足たち。


 安全確認のため、通行人は遠ざけている。


 はずだった。


「おい、子どもが入ってるぞ!」


 誰かが叫んだ。


 リオが振り向く。


 封鎖縄の向こう。


 積まれた資材の陰から、小さな影が二つ、地下入口の方へ駆け込んでいた。


「待ってください!」


 リオは叫ぶ。


 その瞬間だった。


 地面が、低く鳴った。


 どん、と腹の底に響く音。


 石畳がわずかに沈む。


 旧水路の奥から、支柱の折れる音がした。


「全員、離れろ!」


 マーレの声。


 だが、子どもたちは間に合わない。


 石畳が割れた。


 階段の一部が崩れ、旧水路の天井が落ちる。


 土埃が噴き上がった。


 悲鳴。


 怒号。


 崩れる石。


 リオは走った。


 風を使うわけにはいかない。


 昼だ。


 人が多い。


 それに、風で土埃を巻き上げれば、余計に視界が悪くなる。


「子ども二人! 地下側に落ちました!」


「作業員も一人取り残されてる!」


「支柱がもたねえぞ!」


 リオは、割れた石畳の端に膝をついた。


 下は暗い。


 見えない。


 声は聞こえる。


 泣き声。


 咳き込む音。


 木材が軋む音。


 黒蝶なら、降りられる。


 壁を蹴り、梁を掴み、子どもを抱えて戻れるかもしれない。


 だが、崩れかけた天井は止められない。


 黒蝶は速い。


 けれど、軽い。


 今必要なのは、速さではなかった。


 落ちるものを止める力。


 崩れる場所を読む力。


 人が逃げる数十秒を稼ぐ力。


 リオの足元で、影が揺れた。


 いつもの黒い影ではない。


 沈む。


 地面へ、沈む。


「……え?」


 リオは息を呑んだ。


 影が、床に貼りつく。


 風に揺れない。


 上へ伸びない。


 地面の下へ、根を張るように広がっていく。


 石畳の隙間から、低い震えが返ってきた。


 古い水路。


 埋められた荷道。


 街を支える基礎。


 その奥を流れる、重い魔力。


 リオは、はっきり理解した。


 風ではない。


 上へ抜ける力ではない。


 足元から来る。


 土だ。


 黒かった影に、灰色が混じった。


 夜の闇ではない。


 石粉を混ぜたような、重い灰色。


 その影が、人の形に立ち上がる。


 黒蝶ではなかった。


 黒い蝶のように軽くない。


 けれど、崩れかけた地面を前に、一歩も引かなかった。


 まずい。


 リオは瞬時に思った。


 顔が見える。


 灰色の複製体には、黒蝶の仮面がない。


 防毒面もない。


 専用装備もない。


 複製体は、近くに積まれていた押収品へ手を伸ばした。


 夜鴉支部が使っていた荷運び用の作業外套。


 紋章を剥がされ、ただの灰色の布になったもの。


 防塵布。


 ひびの入った作業用ゴーグル。


 厚い革手袋。


 荷締め用のベルト。


 格好いい装備ではない。


 だが、顔は隠れる。


 手は守れる。


 足は地面を掴める。


 それで十分だった。


 灰色の複製体は、割れた石畳に掌を置いた。


 魔力が、地面へ沈む。


 風のように広がるのではない。


 土の隙間を伝い、石の継ぎ目を伝い、崩れかけた基礎の奥へ潜っていく。


 返ってきた。


 重さ。


 空洞。


 ひび。


 折れかけた支柱。


 水路の壁に寄りかかる梁。


 そして、震える小さな呼吸。


 見えないはずの事故現場が、足元から形になった。


 黒蝶なら、上から見る。


 だが、この灰色の影は違う。


 下から読む。


 崩れかけた街の骨を、地面越しに探っている。


「右の支柱が落ちる」


 灰色の複製体が言った。


 黒蝶より低い声だった。


 リオ自身の声なのに、石を含んだように重い。


「三息だけ止める。人を出せ」


 マーレが一瞬だけ目を見開いた。


 だが、迷わなかった。


「聞こえたな! 右へ回れ! 子どもを先に!」


 灰色の複製体は、支柱へ向けて魔力を流した。


 土が締まる。


 割れた石が噛み合う。


 砕けた瓦礫の隙間に、灰色の魔力が薄く入り込む。


 修理ではない。


 ただの延命だ。


 けれど、人が走り抜ける時間は稼げる。


 作業員が子どもを抱えて出てくる。


 もう一人。


 まだ奥にいる。


 梁が落ちた。


 灰色の複製体は、避けなかった。


 飛ばなかった。


 両足を石畳へ踏み込む。


 足元の石が割れる。


 だが、崩れない。


 割れた石が、逆に靴底を噛んだ。


 重さが腕から肩へ、背中へ、足へ、地面へ流れる。


 梁が止まった。


 完全に持ち上げたわけではない。


 力ずくで受け止めたわけでもない。


 落ちる重さを、街の地面に預けている。


「走れ!」


 灰色の複製体が叫ぶ。


 子どもが泣きながら這い出る。


 作業員が最後に転がり出た。


 その直後、梁が再び軋んだ。


 今度は、横の瓦礫が噛んでいる。


 無理に引けば、全部落ちる。


 灰色の複製体は掌を瓦礫に当てた。


 地面を読む。


 支えている場所は、上ではない。


 横だ。


 壊すなら、梁ではない。


 横から噛んでいる小さな石の塊。


 灰色の複製体は、掌底を打ち込んだ。


 どん、と低い音がした。


 魔力を含んだ掌が、石の芯だけを砕く。


 瓦礫の重さがずれた。


 崩壊ではない。


 解体だった。


 逃げ道が開く。


 最後の作業員が外へ転がり出た。


 歓声はなかった。


 皆、息をするだけで精一杯だった。


 灰色の複製体も、肩で息をしている。


 重い。


 黒蝶とは違う。


 速く動けない。


 けれど、立てる。


 支えられる。


 リオは、その感覚を本体側で受け取っていた。


 黒蝶は、風で夜を走る。


 だが、この灰色の影は違う。


 走るためではない。


 支えるために、土を掴んでいる。


     ◇


「逃げたぞ!」


 衛兵の声が飛んだ。


 リオが顔を上げる。


 路地の奥で、細身の男が走っていた。


 昨日の細工師。


 事故に見せるための縄と金具を使った男。


 旧水路の支柱にも細工したのだろう。


 黒蝶なら追える。


 だが、ここにいるのは灰色の複製体だった。


 灰色の複製体は、屋根へ跳ばない。


 壁も走らない。


 代わりに、膝をつき、掌を石畳に置いた。


 足音が、地面に残る。


 逃げる男の重さ。


 踏み込む癖。


 曲がる方向。


 石畳の下の空洞。


 古い壁の弱い場所。


 全部が、鈍い響きとして返ってくる。


「そっちじゃない」


 灰色の複製体は立ち上がった。


 男を追って走るのではない。


 逃げ道を塞ぐ。


 細身の男が裏路地へ入る。


 その先は、古い石壁に囲まれた狭い道だ。


 灰色の複製体は、別の路地から回り込んだ。


 遅い。


 だが、無駄がない。


 男が角を曲がった瞬間、灰色の影が前に立っていた。


「なっ……!」


 男が短刀を抜く。


 灰色の複製体は避けなかった。


 左腕を前に出す。


 土が腕に乗る。


 刃が革手袋を裂きかけ、灰色の魔力に滑った。


 そのまま、手首を掴む。


 男が暴れる。


 黒蝶なら眠らせる。


 この灰色の影は、掴む。


 肩で押す。


 壁へ叩きつける。


 膝を石畳に落とさせる。


「離せ!」


「動くな」


 低い声だった。


 石の蓋を落とされたような声。


 男は逃げようと足を動かす。


 だが、石畳の継ぎ目に灰色の魔力が入り込み、足元を固めていた。


 動けない。


「なんで先回りできる……!」


 男が叫ぶ。


 灰色の複製体は、片手を地面につけたまま答えた。


「お前の足音が、地面に残る」


 衛兵たちが駆けつける。


 灰色の複製体は男を引き渡し、一歩下がった。


 誰かが呟く。


「あれは……黒蝶じゃない」


「灰色だ」


「灰をかぶった作業員みたいな……」


 名前はまだない。


 装備もない。


 ただ、灰色の影だけが、土埃の中に立っていた。


 リオは遠くから、その姿を見ていた。


 自分の複製。


 だが、黒蝶ではない。


 風ではなく、土を掴む影。


 街の下で何かが動いている。


 そして、その流れはもう、リオの影にも触れていた。

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