第二十一話 黒蝶は小悪党に使われる
東荷場へ着いた時、荷車は横倒しになっていた。
積まれていた石材が、道に散っている。
木の車輪は片方が外れ、車軸は折れ、荷台の一部が地面にめり込んでいた。
その下に、人がいる。
「下敷きは一人!」
「意識はある! けど、動かすな!」
「誰か、支えを持ってこい!」
職人と人足たちの声が飛び交う。
リオは息を切らしながら、現場に駆け込んだ。
隣ではマーレがすでに状況を見ている。
「リオ、記録は後だ。人をどかすぞ」
「はい!」
昼のリオは黒蝶ではない。
壁を走れない。
ワイヤーも使えない。
ドリームガンもない。
それでも、ギルド職員としてできることはある。
「周囲を空けてください! 押す人と支える人を分けます! 石材は一つずつ、無理に引き抜かないで!」
声を張る。
冒険者二人が荷台を持ち上げようとする。
だが、荷車は嫌な音を立てて傾いた。
「待ってください!」
リオは叫んだ。
「そのまま上げると、反対側の石が落ちます!」
荷台の上に残った石材。
固定縄は切れている。
無理に上げれば、別の石が滑り落ちる。
人を助けるための動きが、別の人を潰すかもしれない。
リオは歯を食いしばった。
黒蝶なら、速く動ける。
荷台の上へ飛び、縄を押さえ、滑る石を止められるかもしれない。
だが、ここは昼だ。
人目が多すぎる。
それに、たとえ黒蝶でも。
落ちる石材を、全部支えられるわけではない。
「支え棒を二本! 荷台の下、右側から入れてください! 持ち上げるんじゃなく、傾きを止めるだけで!」
「分かった!」
冒険者が太い木材を差し込む。
職人がくさびを打つ。
マーレが人足を誘導する。
「今だ、引き出せ!」
下敷きになっていた男が引きずり出された。
腕を痛めている。
顔色は悪い。
だが、息はある。
周囲から安堵の声が漏れた。
リオも、ようやく息を吐く。
助かった。
それは間違いない。
だが、胸の奥には重いものが残った。
荷台を支えた木材が、ぎしりと音を立てている。
支える。
止める。
崩れないようにする。
黒蝶は、追うことに向いている。
飛ぶことに向いている。
悪党を眠らせることに向いている。
けれど、こういう場所では。
リオは、落ちかけた石材を見上げた。
速さだけでは、足りない。
◇
事故の原因は、すぐには分からなかった。
荷車の留め具が外れた。
車軸が折れた。
石材を固定していた縄も切れていた。
忙しさ。
点検不足。
人手不足。
言い訳はいくつもある。
だが、リオは地面に膝をつき、外れた留め具を見ていた。
古い金具ではない。
錆びてもいない。
むしろ、新しい。
交換されたばかりに見える。
「新しいのに、外れたんですか」
リオが呟くと、マーレが隣にしゃがんだ。
「そう見えるな」
「普通、古い部品が壊れるんじゃ」
「普通はな」
リオは留め具を裏返す。
金具の内側に、細い傷があった。
力任せに外れた跡ではない。
先に削られていたような跡。
「昨日の縄と似ています」
「半分だけ切って、事故に見せる」
「今度は、半分だけ削った」
マーレの表情が険しくなる。
「人為的、か」
「少なくとも、ただの点検不足ではないと思います」
その時、荷車が倒れた地面の下から、かすかな震えが伝わった。
リオは足元を見る。
石畳の隙間。
土埃。
昨日と同じ。
風もないのに、薄い埃がふわりと上がる。
まるで、下から何かが息をしたように。
リオの足元の影が、ほんの一瞬だけ遅れて揺れた。
黒ではない。
重い。
灰色に近い。
「リオ?」
マーレの声で、リオは瞬きをした。
影は、いつも通りだった。
「……何でもありません」
「本当か」
「たぶん」
「たぶんは本当じゃない」
「最近、たぶんが増えています」
「嫌な増え方だな」
本当に嫌な増え方だった。
◇
その夜。
黒蝶は東荷場の屋根に立っていた。
昼間の喧騒は消えている。
倒れた荷車は片づけられ、石材は端へ寄せられ、現場には封鎖縄が張られていた。
だが、黒蝶の視線は荷車跡ではなく、路地の角へ向いていた。
そこに、黒い蝶の札が一枚貼られている。
違う。
黒蝶の札ではない。
形が雑だ。
羽の線が太すぎる。
紙質も違う。
だが、わざと似せている。
札の裏には、短い文字。
東荷場。
切った奴は、北の廃材倉庫へ行く。
今夜。
黒蝶は札を指で挟んだ。
誰が置いたかは、だいたい分かる。
字が汚い。
性格も悪い。
そして、情報だけは妙に生々しい。
「ガロか」
黒蝶は呟いた。
罠かもしれない。
利用されているのかもしれない。
それでも、行かないわけにはいかない。
情報の先に、次の事故があるなら。
人が巻き込まれるなら。
黒蝶は屋根を蹴った。
◇
北の廃材倉庫では、男たちが集まっていた。
グレイヴファミリーの下っ端たち。
昼間、東荷場にいた顔もある。
その中に、細身の男がいた。
刃物を扱う手つきが、妙に丁寧だった。
縄を切る。
金具を削る。
完全には壊さない。
事故に見える程度に、半分だけ殺す。
男は、古い留め具を机の上に並べていた。
「次は西の足場だ」
男が言う。
「ギダンの連中が仕切ってる現場だ。そこで落ちれば、あいつらの顔が潰れる」
「死人が出たらどうする」
別の男が聞く。
細身の男は笑った。
「死人が出たら、修復が増える」
黒蝶の指が、屋根の端を掴んだ。
軽口は出なかった。
ドリームガンを抜く。
最初の一発は、眠り弾。
窓の隙間から撃つ。
だが、弾が割れる前に、細身の男が横へ跳んだ。
「来たぞ!」
読まれている。
黒蝶は舌打ちしない。
屋根を蹴り、窓枠から中へ入る。
男たちが一斉に動いた。
素人ではない。
だが、強敵というほどでもない。
黒蝶は粘着弾で足元を止め、眠り弾を低く撃ち、二人を眠らせる。
細身の男は逃げる。
追える。
黒蝶なら追える。
壁を蹴り、梁へ上がり、屋根へ出れば、すぐに追いつける。
その時だった。
倉庫の奥で、木組みが嫌な音を立てた。
男たちが逃げる時、積まれていた廃材の支えを蹴ったのだ。
木材の山が崩れる。
その下に、縛られた人足が二人いた。
口を塞がれている。
おそらく、事故を見たか、巻き込まれた者。
細身の男は、もう裏口へ向かっている。
黒蝶は一瞬だけ見る。
逃げる男。
崩れる廃材。
追える。
助けられる。
両方は、無理だ。
黒蝶は、裏口へ向かわなかった。
梁へワイヤーを撃つ。
身体を引き上げる。
そこから廃材の山へ飛び、崩れる木材の流れを蹴ってずらす。
粘着弾。
支え木に撃つ。
もう一発。
転がる梁に撃つ。
風を細く使い、土埃を逃がす。
「動くな」
黒蝶は人足たちに言った。
「今、出す」
外では、細身の男の足音が遠ざかる。
黒蝶は奥歯を噛んだ。
追える。
今なら、まだ追える。
だが、目の前の梁が軋む。
人足の一人が震えている。
黒蝶は追わなかった。
廃材を押さえ、人足の縄を切り、外へ逃がす。
最後の一人を外へ出した瞬間、奥の木組みが崩れ落ちた。
大きな音が、夜に響いた。
黒蝶は煤と土埃の中で立ち尽くす。
逃げた男の気配は、もう遠い。
追うだけでは、守れない。
昼に感じた言葉が、夜にも残った。
◇
路地の向こうで、ガロはその様子を見ていた。
黒蝶は人を助けた。
細工をした男は逃げた。
グレイヴの邪魔者は減り、細工の証拠はいくつか残り、黒蝶はまた人を助けたことになる。
「よく働くなあ、黒い蝶」
ガロは小さく笑った。
背後でスネアの声がする。
「使ったね」
「使えるもんを使って何が悪い」
「怒られるよ」
「逃げる」
「逃げ切れなかったら?」
ガロは、昼間殴られた頬を指でなぞった。
「次は、同じ捕まり方はしねえ」
スネアは楽しそうに笑う。
「その言い方、気に入ったんだ」
「うるせえ」
ガロは路地の奥へ歩き出す。
今夜の情報は、まだ売れる。
黒蝶が助けた人足。
逃げた細工師。
グレイヴの下っ端。
ギダンに流せば揉める。
グレイヴの上に売れば、恩を売れる。
黒蝶にもう一度流せば、別の何かが動く。
全部、使える。
全部、拾える。
◇
黒蝶は、崩れた廃材倉庫の前に立っていた。
助けた人足たちは衛兵に保護された。
眠らせた男たちも縛った。
だが、細身の男は逃げた。
黒蝶は足元を見る。
影が揺れていた。
夜の影。
黒いはずの影。
けれど、その輪郭の底に、灰色の重さが混じっている。
ほんの一瞬、影が沈む。
沈んで、何かを支えようとするように広がった。
黒蝶は息を呑む。
すぐに消えた。
だが、感触は残っている。
速さでは足りない。
眠らせるだけでは足りない。
縛るだけでも、止めるだけでも足りない。
落ちるものを、支える力がいる。
黒蝶は、遠ざかった足音の方を見た。
追えなかった。
助けたからだ。
それは間違いではない。
だが、間違いではないだけでは、足りない。
夜風が、土埃を払っていく。
黒蝶の足元で、影だけが少し重く見えた。




