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第二十話 記者は黒蝶を追う

 翌朝。


 ルネリア冒険者ギルドの受付前に、人だかりができていた。


 依頼を出しに来た職人。


 荷運びの人足。


 朝一番で討伐依頼を確認しに来た冒険者。


 そして、いつもなら掲示板に興味などなさそうな近所の店主まで。


 みんな、壁に貼られた一枚の紙を見ている。


 新聞だった。


「……何ですか、あれ」


 リオは受付奥から顔を出した。


 マーレが新聞の方を見て、少しだけ笑う。


「黒蝶の記事だそうだ」


「黒蝶の」


 嫌な予感がした。


 かなりした。


 リオは人だかりの隙間から、新聞の見出しを見る。


 大きな文字が躍っていた。


『夜を舞う黒い蝶――黒蝶ファントム、夜鴉支部崩壊の影に』


 リオは固まった。


 黒蝶。


 それはいい。


 いや、よくはないが、もう噂として広がっている。


 問題は、その横に添えられた妙な読み方だった。


「……ファントム?」


 思わず声が漏れる。


 マーレが横から新聞を覗き込んだ。


「格好いいじゃないか」


「そうですかね」


「本人が聞いたら照れるかもな」


「……本人に聞く機会がないといいですね」


 記事には、夜鴉支部崩壊までの出来事が、実に劇的に書かれていた。


 偽依頼票。


 倉庫街の焼却騒ぎ。


 声を奪われた証人。


 そして、悪人を眠らせ、証拠を朝へ返す謎の黒い仮面。


 本文の中で、その存在はこう呼ばれていた。


 黒蝶ファントム


 夜の帳に現れ、朝には消えている者。


 リオは額を押さえた。


「誰が書いたんですか、これ」


「私です」


 背後から声がした。


 リオが振り返ると、見慣れない女性が立っていた。


 栗色の髪を肩のあたりでまとめ、少し大きめの鞄を斜めにかけている。


 片手には手帳。


 もう片方には、鉛筆。


 目が、妙にきらきらしていた。


 嫌な予感が、もう一段濃くなる。


「ルネリア日報のイリスです」


 女性はにこりと笑った。


「黒蝶について、お話を伺いに来ました」


「帰ってください」


 リオは即答した。


 マーレが咳き込む。


「リオ、早い」


「でも正しい判断だと思います」


「気持ちは分かるが、相手は記者だ。雑に追い返すと、別の記事になる」


「では丁寧に帰っていただきましょう」


 イリスはまったく怯まなかった。


「大丈夫です。ギルド職員の方の個人名を勝手に出すつもりはありません。私は、黒蝶という存在が街でどう受け止められているかを取材したいだけです」


「それはそれで困ります」


「困るということは、何かご存じで?」


「知りません」


「即答ですね」


「即答です」


 イリスは楽しそうに手帳を開いた。


 マーレがリオの肩を軽く叩く。


「リオ、俺は少し奥へ行く」


「逃げるんですか」


「違う。戦略的後退だ」


「言い方を変えただけでは」


「頼んだ」


「裏切り者」


 マーレは聞こえないふりをして奥へ消えた。


 ひどい。


 職場とは、時に非情である。


     ◇


 イリスは受付奥の端に案内された。


 リオは湯気の立つ茶を置く。


 記者相手に塩対応だけするわけにもいかない。


 ギルド職員なので。


 ギルド職員なので。


 大事なことなので、心の中で二回言った。


「それで、黒蝶について何を聞きたいんですか」


「まず、ギルドとしては黒蝶をどう見ていますか」


「不審者です」


「でも、夜鴉支部崩壊には大きく関わっていますよね」


「不審者でも、たまに役に立つことはあります」


「面白い表現ですね。書いても?」


「書かないでください」


 イリスは残念そうに鉛筆を止めた。


「では、助けられた人々は?」


「感謝している人はいるようです」


「ギルドとしては?」


「正式な協力者ではありません」


「でも敵ではない?」


 リオは一瞬だけ迷った。


 敵。


 ではない。


 少なくとも、ギルドにとっては。


 しかし、正体不明の人物を味方と言い切るのも危険だ。


「……行動ごとに判断するべきだと思います」


「なるほど」


 イリスの鉛筆が走る。


「慎重な回答ですね」


「仕事なので」


「黒蝶本人は、自分が記事にされたらどう思うでしょう」


 リオは茶を吹きそうになった。


「本人に聞いてください」


「聞けたら聞いています」


「それはそうですね」


「夜にしか現れない。悪人を眠らせる。現場には黒い蝶の札。誰も正体を知らない。これほど記事になる存在はありません」


「記事になると困る存在でもあります」


「なぜ?」


「黒蝶を真似する人が出るかもしれません」


 イリスの目が、少しだけ真剣になった。


「それは、もう出ています」


「……出ているんですか」


「黒い紙片を置いて、ただの脅しに使う者。黒蝶に助けられたと嘘をつく者。逆に、黒蝶をおびき出すために騒ぎを起こそうとする者」


 リオは言葉を失った。


 黒蝶の噂は、広がっている。


 広がれば、良いことだけでは済まない。


 助けられた人にとっては希望になる。


 だが、悪党にとっては利用できる名前になる。


「だからこそ、私は書きたいんです」


 イリスは言った。


「黒蝶は何をして、何をしないのか。噂だけが一人歩きすると、街は勝手に怪物を作ります」


「……記事で、それを止められますか」


「止められません」


 即答だった。


 リオは少しだけ目を丸くする。


 イリスは苦笑した。


「でも、形を与えることはできます。黒蝶をただの怪談ではなく、夜の事件を朝へ返す存在として書く。そうすれば、少なくとも嘘は見分けやすくなる」


 リオは、新聞の見出しを思い出した。


 黒蝶ファントム


 自分で名乗ったわけではない。


 だが、名前はもう街へ出てしまった。


「……あの」


「はい」


「ファントムって、必要でした?」


 イリスは満面の笑みを浮かべた。


「必要です。読者は格好いい呼び名が好きなので」


「正直ですね」


「記事は正直さが大事です」


「今の正直さは、少し違う気がします」


     ◇


 その日の午後。


 新聞は、街のあちこちで読まれていた。


 パン屋の前。


 水汲み場。


 荷車の停まる広場。


 職人街の作業場。


 子どもたちは、黒蝶の真似をして路地の壁に手をつく。


「見ろ、黒蝶!」


「お前、全然飛べてないぞ」


「うるせえ!」


 人足たちは、記事を見ながら肩をすくめる。


「夜鴉を潰したってのは本当かね」


「俺は見たぜ。黒い仮面が、火の中から人を出したって」


「俺が聞いたのは、壁を走ったって話だ」


「それは盛ってるだろ」


 盛ってはいない。


 リオは通りすがりに聞こえた会話に、心の中でだけ突っ込んだ。


 突っ込んでから、自分が嫌になる。


 そんなことをしている場合ではない。


 ギルドに戻れば、修復依頼の追加確認が待っている。


 昨日の荷吊り場事故の報告書もある。


 縄の切れ口。


 地面の下から押し上げるように揺れた土埃。


 足元の影の違和感。


 考えることが多すぎる。


 リオが職人街の角を曲がった時、ふと、路地裏から声が聞こえた。


「黒蝶を倒せば、名前が売れるな」


 足が止まる。


 路地の奥に、三人の男がいた。


 冒険者ではない。


 仕事着でもない。


 剣を持っているが、構え方が荒い。


 そのうち一人が、壁に貼られた新聞を指で叩いた。


「夜鴉潰しを倒した男、ってわけだ」


「そりゃ仕事が来るな」


「黒蝶が出そうな場所、探すか」


 リオは息を潜めた。


 黒蝶は、人を助けるために動いた。


 悪党を止めるために動いた。


 だが、その行動は別の連中の欲も刺激する。


 名を売りたい者。


 黒蝶を利用したい者。


 黒蝶を罠にかけたい者。


 記事になったことで、黒蝶は噂ではなく標的になり始めている。


 リオは静かにその場を離れた。


 昼のギルド職員として、そこで騒ぎを起こすわけにはいかない。


 だが、胸の奥に重いものが残った。


     ◇


 夕方。


 ギルドに戻ると、リオの机には新しい報告書が置かれていた。


 マーレが腕を組んでいる。


「戻ったか」


「戻りました。できれば今日はもう帰りたいです」


「気持ちは分かるが、無理だ」


「やはり」


 リオは報告書を手に取った。


 東荷場。


 資材搬入の順番を巡る揉め事。


 グレイヴファミリーらしき男たちと、ギダン一家の関係者が口論。


 怪我人はなし。


 ただし、荷車の留め具に細工の可能性。


 リオは眉を寄せる。


「また細工ですか」


「まだ確定ではない」


「確定ではないことが増えていますね」


「そういう時期だ」


 マーレは苦い顔をした。


「それと、イリスさんから伝言だ」


「聞きたくないです」


「黒蝶への取材依頼は、いつでも受け付けています、だそうだ」


「絶対に受け付けないでください」


「もちろんだ」


 マーレは一拍置いてから言った。


「ただ、記事自体は悪くなかった」


 リオは少しだけ黙る。


「そうですか」


「ああ。黒蝶をただの怪談にしない。その意味では、必要かもしれない」


「そのせいで、狙う人も出そうですけどね」


「出るだろうな」


 マーレの声は重かった。


「夜鴉支部を潰したんだ。黒蝶は、もうただの噂では済まない」


 リオは窓の外を見た。


 夕日が、職人街の屋根を赤く染めている。


 街は修復の音で騒がしい。


 金槌。


 荷車。


 人の声。


 その下で、見えないものも動き始めている。


 裏の利権。


 事故に見せた細工。


 地面の下を流れる魔脈。


 そして、黒蝶という名前。


「……ファントム、ですか」


 リオは小さく呟いた。


「嫌か?」


 マーレが聞く。


「嫌というか」


「というか?」


「修理費が増えそうな名前です」


「そこか」


 マーレは呆れたように笑った。


 その時、受付の外でざわめきが起きた。


 職人風の男が駆け込んでくる。


「ギルドの人はいるか!」


 リオとマーレが同時に振り返る。


「東荷場で荷車が倒れた! 下に人がいる!」


 リオの手から、報告書が落ちた。


 昼の仕事は、まだ終わらない。


 夜の影も、まだ遠くなかった。

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