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第一話 昼の顔はギルド職員

 翌朝。


 ルネリア冒険者ギルドの見習い職員リオは、受付カウンターの奥で、死んだ魚のような目をして依頼票を並べていた。


「……リオ」


「はい」


「顔色が悪いぞ」


「気のせいです」


「気のせいで人間の顔はそこまで青くならない」


 主任のマーレは、手元の書類から顔を上げて、真面目にそう言った。


 二十代後半。

 落ち着いた物腰。

 仕事は堅実。

 部下の様子もよく見ている。


 つまり、直属の上司としてはかなりまともな人である。


 まともな人なので、部下の顔色が悪ければ普通に心配する。


 そのまともさが、今のリオには少し痛い。


「昨日、少し寝つきが悪くて」


「少しでその目の隈か」


「成長期なので」


「成長期は夜に寝るものだ」


 正論だった。


 正論は強い。

 剣より強い。

 少なくとも、寝不足の見習い職員にはよく刺さる。


 リオは反論をあきらめ、黙って依頼票を日付順に並べた。


 冒険者ギルドの朝は忙しい。


 討伐依頼を確認する者。

 薬草採取の掲示を見る者。

 昨日の成果を換金する者。

 朝から酒の匂いをまとって報酬だけ受け取りに来る者。


 そして、ときどき。


 受付前で、妙な噂を大声で話す者。


「だからよ、昨日の夜は本当に出たんだって!」


 若い冒険者が、興奮した声を上げていた。


 リオの指が、依頼票の端で止まる。


「何が出たんだよ」


「黒蝶だよ、黒蝶!」


 リオは、そっと視線を下げた。


 とても忙しい。

 依頼票が一枚。

 二枚。

 三枚。


 数えなければならない。


 黒蝶など知らない。

 知らないったら知らない。


「またその噂か」


 別の冒険者が笑った。


「黒い仮面つけたやつが、悪党を眠らせて衛兵に突き出すってやつだろ?」


「噂じゃねえって! 裏通りでチンピラ三人が捕まったんだよ。二人は寝てた。一人は足が石畳に貼りついてた」


「貼りつく?」


「動けなかったらしい」


「飲みすぎだろ」


「違うって! あと黒い蝶の札が置いてあったんだと」


「出た。黒蝶札」


「名前ついてんのかよ」


「だって毎回あるんだろ? 黒い蝶の札」


「毎回じゃないらしいぞ」


「じゃあ気分か?」


「黒蝶の気分?」


 冒険者たちは楽しげに笑っている。


 リオは依頼票を並べながら、内心で額を押さえた。


 噂になるのが早い。


 いや、昨夜の件は多少目立った自覚がある。


 屋根から降りた。

 黒い仮面をつけていた。

 見慣れない筒を使った。

 男を眠らせた。

 足も止めた。

 蝶札も置いた。


 うん。


 噂になる。


 むしろ、噂にならないと思っていた昨日の自分を問い詰めたい。


「黒蝶、ねえ」


 マーレがぽつりと言った。


 リオは背筋をわずかに伸ばす。


「最近よく聞くな」


「そうですね」


 声は平静。

 たぶん平静。

 少なくとも、本人はそう信じている。


「リオはどう思う」


「どう、とは」


「悪党を捕まえているらしいが、正体不明だ。衛兵も扱いに困っている。町の者には感謝されているが、ギルドとしては安易に持ち上げるわけにもいかない」


 真面目だ。


 非常に真面目な意見だった。


 リオは依頼票を整えながら、言葉を選ぶ。


「……悪人を殺していないなら、まだいいのでは」


「まだ、だ」


 マーレは静かに言う。


「力を持つ者が、勝手に裁きを始めれば線引きが曖昧になる。たとえ善意でもな」


「はい」


「だから、もし知り合いにそういう危なっかしい者がいたら、無茶はするなと伝えておけ」


「知り合いにはいませんが、覚えておきます」


 リオは目を逸らさずに答えた。


 嘘は言っていない。


 黒蝶は知り合いではない。


 自分である。


 正確には、自分ではない。


 けれど自分である。


 ややこしい。


 ややこしいので、今は考えないことにした。


 その時、奥の扉が開いた。


「朝から湿気た面してんな、リオ」


 低い声とともに現れたのは、ルネリア冒険者ギルドのギルドマスター、オルドだった。


 大柄な体。

 無精髭。

 古傷の残る腕。


 元冒険者らしい迫力があるが、リオにとっては育ての親に近い人物でもある。


「おはようございます、オルドさん」


「おう。寝てねえ顔だな」


「寝ました」


「どれくらい」


「……体感では、かなり」


「時間で言え」


 リオは黙った。


 オルドは鼻で笑う。


「まあいい。午前は素材確認を手伝え。昼から依頼票の整理だ」


「はい」


「あと」


 オルドの目が、リオを見る。


 鋭い。


「妙な噂に首突っ込むなよ」


「妙な噂、ですか」


「黒い仮面だの、黒い蝶だの、最近うるせえからな」


 リオは笑顔を作った。


「町が物騒ですね」


「お前も物騒な顔してるぞ」


「ただの寝不足です」


「寝不足で済むうちに寝ろ」


 その一言だけ残して、オルドは奥へ戻っていった。


 リオは小さく息を吐く。


 危ない。


 何が危ないのかは分からない。

 だが、とにかく危ない。


 午前中は、薬草と魔物素材の確認に追われた。


 乾燥薬草の束を数える。

 魔狼の牙を検品する。

 泥だらけの革袋から出てきた謎の骨片に首を傾げる。


「これは何ですか」


「たぶん角だ」


「どの辺りが?」


「気持ちが」


「気持ちで素材を提出しないでください」


 冒険者とのやり取りは、だいたいこんなものだ。


 リオは若いが、ギルドで育ったため仕事には慣れている。


 受付補助。

 依頼票の整理。

 素材の一次確認。

 冒険者への伝言。

 倉庫整理。


 見習い職員という肩書きのわりに、やることは多い。


 昼前には、目の奥がじんわり重くなっていた。


 眠い。


 ものすごく眠い。


 だが、眠気の奥で昨夜の記憶がちらつく。


 怯えていた少女。

 笑っていた男たち。

 石畳に置いた黒い蝶の札。

 屋根の上を渡る夜風。


 そして、胸の奥に残る、少しだけ誇らしい感覚。


 リオは前世のことを、すべて鮮明に覚えているわけではない。


 ただ、ヒーローものが好きだったことは覚えている。


 困っている人の前に現れる者。

 悪人を止める者。

 最後には、何も言わず去っていく者。


 そういうものに、ずっと憧れていた。


 だから今も、夜になると眠れない。


 疲れているのに。

 眠いのに。

 明日も仕事なのに。


 それでも、あの黒い仮面を手に取ってしまう。


 リオは誰にも聞こえないように、小さく息を吐いた。


 変身できるわけではない。


 けれど、夜へ送り出せる自分がいる。


 外へ出ていないのに、外で動ける。


 そのための力を、リオは持っていた。


 珍しいだけで外れ扱いされた、自分だけのスキル。


 その名は、【複製】。

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