プロローグ 黒い蝶は夜に舞う
ルネリアの夜には、いくつかの噂がある。
悪人だけが見る、黒い仮面。
朝になると残されている、黒い蝶の札。
そして、眠ったまま衛兵に引き渡される、路地裏のならず者たち。
正体不明。
目的不明。
けれど、助けられた者は口を揃えて言う。
あれは不審者ではない。
たぶん。
きっと。
おそらく。
夜のヒーローだ、と。
誰が呼んだか、その名は黒蝶。
◇
「なあ、嬢ちゃん。ちょっと金を貸してくれって言ってんだよ」
裏路地の奥で、三人の男が一人の少女を囲んでいた。
少女は小さな籠を胸に抱えている。中には売れ残りのパンがいくつか。男たちが欲しがるような金など、持っているようには見えなかった。
「持ってません……」
「ああ? 聞こえねえなあ」
男の一人が、少女の籠へ手を伸ばす。
その手が、届く前に止まった。
「それ、貸してくれって態度じゃないだろ」
声は、上から降ってきた。
男たちが顔を上げる。
路地の壁。二階の窓枠。そのさらに上、屋根の縁に、黒い人影が立っていた。
黒いマント。
黒いゴーグル。
鼻と口を覆う黒い防毒面。
遠目には、顔のない黒い仮面に見える。
「……誰だ、てめえ」
男が唸る。
黒い人影は答えない。
代わりに、片手に持った小さな筒を、静かに向けた。
剣ではない。
杖でもない。
弓でもない。
この世界の者が見れば、まず武器とは思わないだろう。
だが、それは悪人を夢に落とすための、小さな筒だった。
「おい、何だそれ――」
小さな射出音が、夜気を叩いた。
先頭の男の首筋に、細い針のような弾が当たる。
「……あ?」
男は一歩踏み出そうとして、膝から崩れ落ちた。
眠った。
「なっ……」
「おい、何しやがった!」
残り二人が叫ぶ。
黒い人影は、屋根から落ちた。
いや、降りた。
壁を蹴り、窓枠を踏み、黒いマントを夜気に流して、路地へ滑り込む。
着地の直前、靴底が石壁を捉えた。
一秒だけ。
黒い仮面が、垂直の壁に立つ。
「化け物かよ……!」
「違う」
黒蝶は短く返した。
次の瞬間、筒の先が男の足元へ向く。
短い射出音。
石畳で弾が割れ、黒い粘着液が薄く広がった。
「うおっ!? 足が……!」
男の靴底が、石畳へ縫い止められる。
逃げ道が、足元から消えた。
「くそっ!」
最後の一人が、少女へ手を伸ばした。
人質にするつもりだったのだろう。
悪くない判断だ。
だからこそ、黒蝶はそれを待っていた。
男が少女を見る。
黒蝶から視線が外れる。
その一拍で、黒いマントが動いた。
細いワイヤーが路地の梁に走る。
黒蝶の体が、横へ引かれる。
男の手が少女へ届くより早く、黒い靴が壁を蹴った。
男の背後に、黒蝶が落ちる。
「順番が違う」
静かな声だった。
「その子に手を伸ばす前に、こっちを見ろ」
男が振り返る。
その時には、もう遅い。
黒蝶の筒は、男の首元に向いていた。
射出音は小さい。
結果は早い。
男の怒鳴り声が途切れ、膝が折れる。
黒蝶は倒れる体を片手で支え、音を立てないよう石畳へ寝かせた。
殺さない。
逃がさない。
傷つけすぎない。
眠らせて、朝へ返す。
それが黒蝶のやり方だった。
路地に残ったのは、眠る男が二人。足を縫い止められた男が一人。
黒蝶は少女の前にしゃがむ。
「怪我は?」
「……ない、です」
「ならいい」
声は思ったより若かった。
怖い仮面なのに、声だけは妙に穏やかだった。
「あの、あなたは……」
少女が尋ねる。
黒蝶は答えず、指を一本、仮面の口元に当てた。
そして、縛られた男たちのそばに小さな札を置く。
黒い蝶が描かれた札だった。
「衛兵詰所は、大通りを右。走れるか?」
「は、はい」
「なら走れ。振り返らなくていい」
少女が駆け出す。
黒蝶はそれを見送ると、腰の道具から細いワイヤーを射出した。
金具が、屋根の縁を噛む。
黒いマントが、ふわりと夜に浮いた。
次の瞬間、黒蝶は路地の壁を蹴り、屋根の上へ消えていく。
あとに残されたのは、眠る悪党と、動けない悪党と、黒い蝶の札だけだった。
しばらくして、衛兵が駆けつける。
一人が札を拾い上げ、ため息をついた。
「またか」
「また、例のやつですか?」
「ああ」
衛兵は、札に描かれた黒い蝶を見る。
悪人の前にだけ現れる、黒い仮面。
殺さず、奪わず、眠らせて消える、夜の不審者。
いや。
夜のヒーロー。
ルネリアの夜で、その噂は少しずつ広がっていた。
その名は、黒蝶。
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このあと、第一話・第二話も続けて投稿予定です。
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