表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/25

プロローグ 黒い蝶は夜に舞う

 ルネリアの夜には、いくつかの噂がある。


 悪人だけが見る、黒い仮面。

 朝になると残されている、黒い蝶の札。

 そして、眠ったまま衛兵に引き渡される、路地裏のならず者たち。


 正体不明。

 目的不明。

 けれど、助けられた者は口を揃えて言う。


 あれは不審者ではない。

 たぶん。

 きっと。

 おそらく。


 夜のヒーローだ、と。


 誰が呼んだか、その名は黒蝶。


     ◇


「なあ、嬢ちゃん。ちょっと金を貸してくれって言ってんだよ」


 裏路地の奥で、三人の男が一人の少女を囲んでいた。


 少女は小さな籠を胸に抱えている。中には売れ残りのパンがいくつか。男たちが欲しがるような金など、持っているようには見えなかった。


「持ってません……」


「ああ? 聞こえねえなあ」


 男の一人が、少女の籠へ手を伸ばす。


 その手が、届く前に止まった。


「それ、貸してくれって態度じゃないだろ」


 声は、上から降ってきた。


 男たちが顔を上げる。


 路地の壁。二階の窓枠。そのさらに上、屋根の縁に、黒い人影が立っていた。


 黒いマント。

 黒いゴーグル。

 鼻と口を覆う黒い防毒面。


 遠目には、顔のない黒い仮面に見える。


「……誰だ、てめえ」


 男が唸る。


 黒い人影は答えない。


 代わりに、片手に持った小さな筒を、静かに向けた。


 剣ではない。

 杖でもない。

 弓でもない。


 この世界の者が見れば、まず武器とは思わないだろう。


 だが、それは悪人を夢に落とすための、小さな筒だった。


「おい、何だそれ――」


 小さな射出音が、夜気を叩いた。


 先頭の男の首筋に、細い針のような弾が当たる。


「……あ?」


 男は一歩踏み出そうとして、膝から崩れ落ちた。


 眠った。


「なっ……」


「おい、何しやがった!」


 残り二人が叫ぶ。


 黒い人影は、屋根から落ちた。


 いや、降りた。


 壁を蹴り、窓枠を踏み、黒いマントを夜気に流して、路地へ滑り込む。


 着地の直前、靴底が石壁を捉えた。


 一秒だけ。


 黒い仮面が、垂直の壁に立つ。


「化け物かよ……!」


「違う」


 黒蝶は短く返した。


 次の瞬間、筒の先が男の足元へ向く。


 短い射出音。


 石畳で弾が割れ、黒い粘着液が薄く広がった。


「うおっ!? 足が……!」


 男の靴底が、石畳へ縫い止められる。


 逃げ道が、足元から消えた。


「くそっ!」


 最後の一人が、少女へ手を伸ばした。


 人質にするつもりだったのだろう。


 悪くない判断だ。

 だからこそ、黒蝶はそれを待っていた。


 男が少女を見る。

 黒蝶から視線が外れる。


 その一拍で、黒いマントが動いた。


 細いワイヤーが路地の梁に走る。

 黒蝶の体が、横へ引かれる。

 男の手が少女へ届くより早く、黒い靴が壁を蹴った。


 男の背後に、黒蝶が落ちる。


「順番が違う」


 静かな声だった。


「その子に手を伸ばす前に、こっちを見ろ」


 男が振り返る。


 その時には、もう遅い。


 黒蝶の筒は、男の首元に向いていた。


 射出音は小さい。


 結果は早い。


 男の怒鳴り声が途切れ、膝が折れる。


 黒蝶は倒れる体を片手で支え、音を立てないよう石畳へ寝かせた。


 殺さない。

 逃がさない。

 傷つけすぎない。


 眠らせて、朝へ返す。


 それが黒蝶のやり方だった。


 路地に残ったのは、眠る男が二人。足を縫い止められた男が一人。


 黒蝶は少女の前にしゃがむ。


「怪我は?」


「……ない、です」


「ならいい」


 声は思ったより若かった。


 怖い仮面なのに、声だけは妙に穏やかだった。


「あの、あなたは……」


 少女が尋ねる。


 黒蝶は答えず、指を一本、仮面の口元に当てた。


 そして、縛られた男たちのそばに小さな札を置く。


 黒い蝶が描かれた札だった。


「衛兵詰所は、大通りを右。走れるか?」


「は、はい」


「なら走れ。振り返らなくていい」


 少女が駆け出す。


 黒蝶はそれを見送ると、腰の道具から細いワイヤーを射出した。


 金具が、屋根の縁を噛む。


 黒いマントが、ふわりと夜に浮いた。


 次の瞬間、黒蝶は路地の壁を蹴り、屋根の上へ消えていく。


 あとに残されたのは、眠る悪党と、動けない悪党と、黒い蝶の札だけだった。


 しばらくして、衛兵が駆けつける。


 一人が札を拾い上げ、ため息をついた。


「またか」


「また、例のやつですか?」


「ああ」


 衛兵は、札に描かれた黒い蝶を見る。


 悪人の前にだけ現れる、黒い仮面。

 殺さず、奪わず、眠らせて消える、夜の不審者。


 いや。


 夜のヒーロー。


 ルネリアの夜で、その噂は少しずつ広がっていた。


 その名は、黒蝶。

お読みいただきありがとうございます。

このあと、第一話・第二話も続けて投稿予定です。

よろしければブックマーク・評価などで応援いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ