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第十六話 黒蝶は帳簿を朝へ返す

 翌朝。


 ルネリア冒険者ギルドの受付奥で、リオは焦げた荷札を見ていた。


 端は黒い。


 文字はところどころ欠けている。


 封蝋も半分ほど溶けていた。


 だが、読める。


 読める部分がある。


 それだけで、昨夜の煙と煤と修理費には意味があった。


「……リオ」


「はい」


「紙を見て勝った顔をするな」


 主任のマーレが言った。


「勝ってはいません」


「では」


「引き分けです」


「紙相手に引き分けるな」


「燃えかけた紙は強敵です」


「否定しづらいな」


 マーレは焦げた荷札を一枚つまみ上げた。


 荷主名の一部。


 倉庫番号。


 封蝋の縁。


 そして、黒い羽根印に似た跡。


 完全ではない。


 けれど、ただの荷札ではないことは分かる。


 奥からオルドが出てきた。


「焼却屋は」


「衛兵隊が拘束済みです」


 マーレが報告書を開く。


「ただし、依頼主については知らないと。指示書には対象と現場だけ。依頼主の記載なし。指示書そのものも、現場で燃やしたようです」


「用心深いな」


 オルドは低く言った。


 リオは荷札に視線を落とす。


 燃やす者には、燃やすものだけ。


 口を閉じる者には、閉じる口だけ。


 必要なことしか渡されていない。


 とても嫌な合理性だった。


「ですが」


 リオは焦げた荷札の端を指した。


「この倉庫番号、昨日の偽依頼票に出てきた搬入先と近いです。あと、封蝋の跡も、新人冒険者名簿が見つかった箱と似ています」


「夜鴉支部か」


 オルドが言う。


「はい。少なくとも、支部の外倉庫を通っている可能性は高いです」


 マーレが別の紙を広げる。


「衛兵隊も同じ見立てです。今日中に外倉庫の確認に入る準備をしています」


「今日中、か」


 オルドは腕を組んだ。


「相手が待つと思うか」


 リオは答えなかった。


 待たない。


 絶対に待たない。


 昨夜、証拠を焼こうとした。


 それが失敗した。


 なら次は、残っている紙を動かす。


 燃やすか、隠すか、逃がすか。


 どれにせよ、夜明けまで待つ理由はない。


「マーレ、衛兵へ伝えろ。外倉庫だけじゃない。支部の裏口、南倉庫、旧荷置き場へ通じる道も押さえろ」


「承知しました」


「リオ」


「はい」


「お前は証拠品の写しを作れ。原本は一か所にまとめるな」


「分かりました」


「それと」


 オルドの目が、少しだけ細くなる。


「今日は早く帰れ」


「仕事が」


「早く帰れ」


「はい」


 即答した。


 即答しないと、もっと怖いことになりそうだった。


     ◇


 夜鴉商会ルネリア支部。


 支部長は、机を拳で叩いた。


「焼却屋が捕まっただと!?」


 部下は顔を青くして頷く。


「は、はい。黒蝶に制圧され、衛兵に……」


「証拠は」


「一部は燃えました。ですが、荷札と封蝋付きの袋が残ったようで……」


 支部長の喉が鳴った。


 ガンドロは声を失った。


 だが、完全には消えていない。


 荷札も燃えた。


 だが、完全には燃えていない。


 焼却屋は捕まった。


 だが、依頼主は知らない。


 それだけが救いだった。


 救いのはずだった。


「帳消し屋はどうした」


 支部長は低く言った。


「番頭に繋げろ。今すぐだ」


 部下は、さらに顔を青くした。


「それが……」


「何だ」


「連絡がつきません」


 部屋の空気が止まった。


「何?」


「窓口も閉じています。使いの者も戻りません。番頭マネージャーにも……」


「ふざけるな!」


 支部長は立ち上がった。


 椅子が倒れる。


「金は払った! 依頼は通した! まだ処理は終わっていない!」


「ですが、先方からは何も……」


 支部長は息を荒くした。


 帳消し屋は助けに来ない。


 その事実が、遅れて胸に落ちた。


 支部長は机の上の報告書を見る。


 偽依頼票。


 新人冒険者名簿。


 ガンドロ。


 バーナー。


 燃え残った荷札。


 黒蝶。


 全部が、自分の首へ向いている。


「……帳簿を動かせ」


「支部長?」


「残っている帳簿、名簿、封蝋、元紙、金。全部だ」


 支部長は倒れた椅子を蹴った。


「今夜中に外へ出す。支部の中を空にしろ」


「ですが、衛兵が」


「だから今夜だ!」


 支部長の声が裏返る。


「朝になれば終わる。今夜しかない」


 部下は唇を噛み、それでも頭を下げた。


「……承知しました」


 支部長は窓の外を見た。


 まだ昼だ。


 夜は遠い。


 だが、朝はもっと遠くなければならなかった。


     ◇


 その夜。


 黒蝶は、夜鴉支部の外倉庫を見下ろしていた。


 馬車が三台。


 積まれているのは木箱。


 荷札はない。


 だが、箱の角には消しきれなかった封蝋跡がある。


 人の動きは慌ただしい。


 焦りがある。


 雑だ。


 昨夜の焼却屋とは違う。


 これは、逃げるための作業だった。


 黒蝶は屋根の縁に手を置く。


 風を読む。


 火の匂いは薄い。


 薬の匂いもない。


 糸の揺れもない。


 だが、油断はしない。


 糸は見た。


 薬も見た。


 火も見た。


 力任せの荒事も見た。


 だから今日は、先に止める。


 黒蝶はワイヤーを飛ばした。


 屋根から屋根へ。


 馬車の上を越え、倉庫の壁へ一瞬だけ立つ。


 靴底が石壁を噛む。


 風が足裏を押す。


 そこから、真下へ落ちる。


 短い射出音。


 粘着弾が、馬車の車輪で割れた。


 車輪が動かなくなる。


「何だ!?」


「黒蝶だ!」


 叫び声が上がる。


 黒蝶は二発目を撃つ。


 今度は御者台。


 手綱が固定される。


 三発目。


 木箱を持つ男の手と、箱の側面。


 箱が落ちない。


 壊れない。


 動かせない。


「荷を捨てろ!」


 別の男が叫ぶ。


 その手が箱の蓋へ伸びる。


 黒蝶はすでに見ていた。


 粘着弾。


 指が蓋に貼りつく。


「その手は使わせない」


 黒蝶は短く言った。


 支部長が倉庫の奥から飛び出してきた。


「何をしている! 早く動かせ!」


「無理です! 車輪が!」


「壊せ!」


 支部長が怒鳴る。


「箱を壊せ! 帳簿を燃やせ!」


 その声が、夜に響いた。


 黒蝶は、ほんの少しだけ首を傾けた。


「いい声だな」


「……っ」


 支部長の顔が強張る。


 倉庫の外。


 路地の向こう。


 衛兵の足音が近づいていた。


 黒蝶が置いた黒い蝶の札。


 そして、ギルドへ届けた短い書き置き。


 今夜、南外倉庫。


 帳簿が動く。


 それだけで十分だった。


「貴様、まさか……!」


「朝まで待つ必要はないと思って」


 黒蝶は言った。


 支部長は懐へ手を入れる。


 小瓶。


 火打ち石。


 いや。


 黒蝶は動いていた。


 壁を蹴り、一瞬で距離を詰める。


 支部長の手首に触れ、向きをずらす。


 小瓶は地面へ落ちる前に、黒蝶の外套で受け止められた。


 割れない。


 燃えない。


 滲まない。


「昨日見た」


 黒蝶は低く言った。


「紙を濡らす奴も、燃やす奴も」


 支部長が喉を鳴らす。


「だから今日は、先に止める」


 支部長が後ろへ下がる。


 逃げようとする。


 だが、背後には馬車。


 車輪は動かない。


 横には部下。


 手は箱に貼りついている。


 前には黒蝶。


 路地の奥からは衛兵。


 逃げ道は、もうない。


「私は知らん!」


 支部長は叫んだ。


「これは部下が勝手に――」


「箱を壊せと言った」


 黒蝶は短く遮る。


「帳簿を燃やせとも」


 支部長の顔が白くなる。


 衛兵たちは、もうそこまで来ていた。


 マーレの声も聞こえる。


「現場を押さえろ! 箱は壊すな!」


 黒蝶は支部長の足元へ、黒い蝶の札を置いた。


「帳簿は、朝に返す」


     ◇


 翌朝。


 夜鴉商会ルネリア支部には、衛兵が入っていた。


 表では正規の商会。


 だが、奥から出てきたのは、偽依頼票の元紙、黒い羽根印の封蝋、新人冒険者名簿、裏荷運びの帳簿。


 そして、昨夜外倉庫で押さえられた支部長本人だった。


 ギルド職員として現場に立つリオは、山のような紙を見ていた。


「……多いですね」


 マーレが隣で言う。


「多いな」


「今日中に終わりますか」


「終わると思うか」


「思いません」


「正直でよろしい」


 リオは書類箱を一つ受け取った。


 中には、黒蝶が夜に守った帳簿がある。


 夜に黒蝶が残したものを、昼のリオが正式な証拠として受け取る。


 奇妙な二重生活だった。


 奇妙だが、悪くない。


 オルドが支部の奥から出てきた。


「支部長は」


「衛兵隊が連行しました」


 マーレが答える。


「薄灰の男は」


「痕跡なしです。薬瓶も、薬布も、それらしい足取りも見つかっていません」


 オルドは舌打ちした。


「ああいう手合いは、逃げ足だけは速い」


 リオは何も言わなかった。


 あの薄灰の処置服の男は、ここにはいない。


 声を奪い、紙を滲ませ、必要な分だけ処理して消える。


 そういう相手なのだと、リオは覚えた。


     ◇


 その夜。


 ルネリアのどこかにある、静かな部屋。


 番頭は、薄い帳簿を開いていた。


 黒い礼装。


 白い立襟。


 小さな黒い蝶結び。


 銀のペン。


 目の前には、報告役の男が一人立っている。


「ルネリア支部長は、衛兵に連行されました」


「そうですか」


 番頭は、感情のない声で答えた。


「焼却屋は」


「拘束中です。ただし、依頼主は知りません。指示書も処理済みです」


「では、問題ありません」


 銀のペンが帳簿を滑る。


「黒蝶。火属性への対応あり。証拠保全優先。救助優先。風属性の精密運用。危険度、上方修正」


 報告役の男が、わずかに目を伏せた。


「夜鴉本部は」


「動いていません。ルネリア支部長は、最後まで本部へ報告しなかったようです」


「では、この件は支部長個人の失敗です」


 番頭は静かに言った。


「夜鴉は敵に回したくありません。ですが、沈む支部に付き合う義理もありません」


 銀のペンが、最後の一行を書き足す。


 夜鴉商会ルネリア支部。


 閉帳。


 番頭は帳簿を閉じた。


「黒い蝶は、朝へ返す」


 灯りが小さく揺れる。


「では、こちらは夜へ戻りましょう」


 次に灯りが落ちた時、部屋には誰の足音も残っていなかった。

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