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第十五話 黒蝶は火の粉を避ける

 黒蝶は梁の上で、倉庫全体を見下ろしていた。


 床には火。


 壁には熱。


 奥には焦げかけた荷札。


 外には、逃げ出した人足たちの咳き込む声。


 焼却屋バーナーは、火の向こうで笑っている。


「どうした、黒い蝶」


 赤錆色の髪が、火明かりで揺れた。


「上に逃げたら、紙は守れねえぞ」


 その通りだった。


 黒蝶は人を逃がした。


 だが、その間に証拠の一部は燃えた。


 眠り弾は届く前に焼かれる。


 粘着弾は焦がされる。


 煙幕弾は使えない。


 風は、使い方を誤れば火を広げる。


 火の中で、黒蝶の手札は削られていた。


 だから、黒蝶は床を見なかった。


 火だけを見ても、負ける。


 見るべきは、火が走る道だった。


 油の線。


 火種の筒。


 焦げた木箱。


 煙の逃げる向き。


 バーナーの手の動き。


 燃やす順番。


 火は、気まぐれに暴れているわけではない。


 焼却屋が、火に仕事をさせている。


 なら、仕事の手順を止めればいい。


 黒蝶は梁を蹴った。


 ワイヤーが天井の吊り金具を噛む。


 黒い影が、火の上を斜めに飛んだ。


 バーナーが火筒を向ける。


「そこだ!」


 火が走る。


 だが、黒蝶はもうそこにいない。


 壁に靴底が触れた。


 ピタ靴が石壁を噛む。


 風が足裏を押す。


 黒蝶は、壁に一瞬だけ立った。


「は?」


 バーナーの声が漏れる。


 黒蝶は壁を蹴る。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で、窓枠へ跳んだ。


「壁を走るなよ、気持ち悪ぃ!」


「床が燃えている」


「そういう問題か?」


「そういう問題だ」


 バーナーが歯を剥いた。


 火筒を二本、同時に投げる。


 一本は荷札へ。


 もう一本は、黒蝶の進路へ。


 火が二方向へ走った。


 黒蝶は糸見え弾を撃つ。


 細かな粉が、熱の揺らぎに乗る。


 火の道が薄く浮いた。


 床。


 壁。


 天井近くの梁。


 バーナーが次に火を走らせる場所まで見える。


 だが、見えたからといって、全部を止められるわけではない。


 黒蝶は壁を蹴り、身体を反転させる。


 ドリームガンの銃口は、バーナーではなく床へ向いた。


 粘着弾。


 黒い液が、油の線の上に落ちる。


 火がそこへ届いた。


 燃える。


 だが、一瞬だけ鈍った。


 油の線が黒く濁り、火の足が止まる。


 バーナーの眉が動いた。


「……なんだ、今の」


「反応させた」


 黒蝶は短く言った。


「あ?」


「お前のお仲間の技だろ」


「知らねえよ……」


 バーナーは舌打ちした。


 火は止まっている。


 長くはない。


 それでも、一拍あれば十分だった。


 黒蝶は梁へ上がる。


 上から、燃え残った荷札の束へワイヤーを伸ばす。


 束を引く。


 火から離す。


 バーナーが指を鳴らした。


 指先の火が弾ける。


 ワイヤーを焼き切る気だ。


 黒蝶は先に手を離した。


 荷札の束は、宙で一度跳ねる。


 次の瞬間、黒蝶が壁を蹴って追いつき、片手で掴んだ。


 バーナーの目が開く。


「なんで追いつくんだよ!」


「飛んだ」


「見りゃ分かる!」


 黒蝶は荷札を窓の外へ投げた。


 外の衛兵が声を上げる。


「証拠だ! 水をかけるな、濡れ布で押さえろ!」


 リオなら、そう言う。


 黒蝶は言わない。


 代わりに、次の火の道を見る。


 バーナーはもう笑っていなかった。


 火筒を三本、床に落とす。


 火種が散る。


 倉庫の床に、三つの赤い点が灯った。


「なら、全部燃やす」


 火が広がる。


 床。


 壁際。


 小部屋の戸。


 逃げ道。


 黒蝶は煙幕弾に触れない。


 代わりに、風を細く切った。


 火を消さない。


 火が進むための空気だけをずらす。


 赤い線が、途中で曲がる。


 壁へ向かった火が、石床へ落ちる。


 小部屋へ向かった火が、窓側へ逃げる。


 バーナーが歯を剥いた。


「火を消してるわけじゃねえな」


「消すと煙が出る」


「面倒くせえ使い方しやがって」


「仕事柄」


 バーナーが踏み込む。


 黒蝶は待っていた。


 バーナーの靴が、さっき黒蝶が壁に触れた場所の真下へ入る。


 壁から、黒い粘着液が一滴落ちた。


 バーナーの手袋に触れる。


「ちっ」


 バーナーは火で焦がそうとする。


 黒蝶は動いていた。


 天井の梁から、真下へ落ちる。


 普通の落下ではない。


 ワイヤーで速度を殺し、風で姿勢を立て直す。


 黒い影が、バーナーの背後に落ちた。


 バーナーが振り向く。


 遅い。


 黒蝶は足元の火筒を蹴った。


 筒はバーナーの手元ではなく、油の線の切れ目へ転がる。


 火が不発になる。


「てめえ、いつから――」


「最初から」


 黒蝶はさらに跳ぶ。


 床を蹴らない。


 木箱の側面を踏み、壁へ移り、梁へ戻る。


 黒い外套が火の上を裂く。


 バーナーが火筒を投げる。


 黒蝶は天井の梁を掴み、身体を逆さに振った。


 火が真下を抜ける。


 焦げた外套の端が散る。


 黒蝶はそのままワイヤーを放つ。


 先端が柱に噛む。


 身体が横へ飛ぶ。


 壁。


 柱。


 梁。


 窓枠。


 黒蝶の足場は、もう床ではなかった。


 倉庫そのものだった。


「ちょろちょろ飛び回りやがって!」


 バーナーが叫ぶ。


「蝶なので」


「そこで軽口戻すな!」


 黒蝶は梁の上で膝を沈めた。


 軽口は戻った。


 だが、目は笑っていない。


 火の道は見えた。


 油の線も見えた。


 バーナーが弾を焼く距離も見えた。


 次で終わらせる。


 黒蝶はドリームガンを構える。


 バーナーが笑い直した。


「撃てよ。燃やしてやる」


 黒蝶は撃った。


 正面ではない。


 背後の壁へ。


 眠り弾が壁に当たり、割れる。


 バーナーが指を鳴らす。


 火は正面に出た。


 そこに弾はない。


「後ろか――」


 気づくのが遅い。


 壁で割れた眠蝶粉が、細い風に乗って回り込む。


 火のない背後から。


 薬布のない首筋へ。


 バーナーが息を吸った。


「……て、め……」


 膝が落ちる。


 だが、バーナーは倒れない。


 厚手の手袋の中へ、指をねじ込む。


 まだ火種を隠していた。


 最後の一つ。


 黒蝶はすでに見ていた。


 梁から落としたワイヤーが、バーナーの手首に絡む。


 引く。


 手が上がる。


 火種は天井へ向いた。


 小さな炎が、空しく弾ける。


 黒蝶は床へ降りた。


 今度は、自分の足で。


 粘着弾。


 バーナーの手袋が床へ止まる。


 もう一発。


 腰の筒が固定される。


「終わりだ」


「甘いな、黒い蝶」


 バーナーの声が掠れる。


「燃やせば、早いのに」


「甘いままでいい」


 バーナーの身体が崩れる。


 黒蝶は襟を掴んだ。


 石床に頭を打たせない。


 火の音が、小さくなる。


 外から衛兵とギルド職員の声が近づいてきた。


「中にいるか!」


「火は!?」


「人は外へ出した」


 黒蝶は窓の方へ答えた。


「焼却屋は眠っている。縛れ」


 衛兵たちが入ってくる。


 その前に、黒蝶は燃え残った荷札と封蝋付きの袋を拾い上げた。


 焦げている。


 欠けている。


 だが、読める部分はある。


 全部は守れなかった。


 だが、全部は燃やさせなかった。


 黒蝶は黒い蝶の札を一枚、バーナーの胸元に置く。


 札の端が、火の残り香で少し焦げた。


 黒蝶は指で焦げを払う。


「燃えたものは、戻らない」


 小さく呟いた。


「だから、燃える前に止める」


 倉庫の外へ出る。


 夜風が、煙を遠くへ流していた。


 黒蝶の外套の端は、焦げている。


 ドリームガンにも、煤がついていた。


 修理費がかかる。


 ミラに怒られる。


 それでも、人は残った。


 紙も残った。


 火だけが、夜の端で細く消えていった。

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