第十四話 焼却屋は火遊びをする
南倉庫裏は、静かだった。
静かすぎた。
夜の倉庫街には、本来なら荷車の軋みや、夜番の咳払いくらいはある。
だが、今はそれがない。
人がいないのではない。
人が、息を潜めている。
黒蝶は屋根の上で身を低くした。
昼に焦げた荷札が見つかった倉庫。
その裏手。
積まれた木箱の陰に、数人の人足がいた。
若い男が二人。
年配の男が一人。
どれも夜鴉の中核には見えない。
荷を運ぶために呼ばれた日雇いだろう。
「聞いてた話と違うぞ……」
「荷を移すだけじゃなかったのかよ」
「静かにしろ。金が出るんだろ」
小声が、風に乗る。
黒蝶は眉を寄せた。
荷を動かす。
夜。
南倉庫裏。
そして、昼に焼かれた荷札。
罠というより、作業だった。
黒蝶は屋根から倉庫の裏口へ視線を移す。
扉の隙間から、細い光が漏れていた。
火だ。
まだ大きくはない。
火事ではない。
誰かが、燃やすものを選んでいる。
黒蝶は屋根を蹴った。
音を殺して、倉庫裏の梁へ降りる。
その瞬間、倉庫の中で、かちり、と音がした。
火打ち石。
続いて、紙が燃える匂い。
黒蝶は窓枠に指をかけ、中を覗いた。
木箱の上に、荷札の束が置かれている。
封蝋付きの袋。
薄い帳簿の切れ端。
偽依頼票らしき紙。
その前に、男が一人立っていた。
赤錆色の短髪。
煤でくすんだ作業服。
厚手の革手袋。
腰には油壺と、金属製の小さな筒。
男は荷札を一枚摘まみ、指先の炎で文字だけを黒くした。
「雑だな」
男が呟く。
「紙を燃やすなら、まず読めるところからだ」
黒蝶は窓枠を蹴った。
中へ入る。
着地音は小さい。
だが、男は振り返った。
「来たか」
笑っている。
待っていた顔だった。
「黒い蝶」
黒蝶はドリームガンを抜く。
「その紙から離れろ」
「嫌だね。俺の仕事だ」
「誰の依頼だ」
「知らねえ」
男はあっさり言った。
「知る必要もねえ。燃やすものが書いてありゃ、それで足りる」
黒蝶は周囲を見る。
床に油の匂い。
壁際に細い導火線。
扉の近くに積まれた木箱。
そして、奥の小部屋。
そこから、人の息遣いが聞こえた。
いる。
人が。
「奥に人がいる」
「ああ」
男は荷札を火に近づけたまま言った。
「見たからな」
黒蝶の声が低くなる。
「関係ない人間だ」
「見たなら証人だ」
男は笑う。
「証人なら、燃えれば静かだ」
空気が変わった。
黒蝶の軽口が消えた。
「……燃やすな」
「あ?」
「燃やすなと言った」
男の笑みが深くなる。
「俺は焼却屋だ。燃やすなってのは、仕事をするなって意味だぜ」
黒蝶は引き金を引いた。
眠り弾。
バーナーは避けなかった。
指先の火を、軽く弾く。
ぱちん。
眠り弾は、届く前に空中で焦げた。
眠蝶粉が黒い煙になって散る。
「粉か」
バーナーは笑った。
「燃えりゃ、ただの煙だ」
黒蝶は一歩横へずれる。
次は粘着弾。
油壺を狙う。
だが、バーナーの足元から細い火が走った。
粘着液の表面が焦げる。
黒い膜が縮み、油壺の口を完全には塞げない。
「ベタベタするやつか。焦がすと剥がれやすいな」
バーナーが油壺を傾けた。
床に細い線が走る。
次の瞬間、火がその線を舐めた。
炎が奥の小部屋へ向かって走る。
黒蝶は風を使った。
だが、強くは吹かせない。
風を送れば、火は伸びる。
だから、火の前にだけ細い流れを置いた。
炎の舌先が、ふっと横へ逸れる。
それでも、完全には止まらない。
熱が小部屋の戸を舐めた。
中から咳が聞こえる。
黒蝶は煙幕弾に指をかけた。
すぐに離す。
使えない。
煙を足せば、中の人間が先にやられる。
「どうした」
バーナーが笑う。
「撃てよ。弾でも粉でも煙でもいい。燃えるもんは、全部こっちの味方だ」
黒蝶は答えない。
梁へ飛ぶ。
ワイヤーを噛ませ、天井近くへ体を引き上げた。
高い位置からなら、床の油の線が見える。
火種の筒も。
逃げ道も。
だが、バーナーもそれを読んでいた。
金属筒が一本、黒蝶のいる梁へ投げられる。
火が走った。
梁が焦げる。
黒蝶は壁へ飛んだ。
靴底が壁を噛む。
風が足裏を押す。
一歩。
二歩。
三歩目で、壁から梁へ戻る。
バーナーの目がわずかに開いた。
「壁を走るなよ、気持ち悪ぃ!」
「床が燃えている」
「そういう問題か?」
「そういう問題だ」
黒蝶は梁の上から糸見え弾を撃った。
細かな粉が熱の流れに乗る。
火の通り道が、薄く浮いた。
床。
壁。
天井近くの梁。
バーナーが次に火を走らせる場所。
黒蝶は見た。
だが、見えたからといって、全部を止められるわけではない。
バーナーが二本目の筒を投げる。
火は荷札の束へ。
黒蝶は止めようとして、奥の小部屋を見た。
人足たちが、煙の中で咳き込んでいる。
紙か。
人か。
答えは決まっていた。
黒蝶は梁を蹴り、小部屋の戸へ向かう。
背後で、荷札の束に火がついた。
「そっちを助けるのか」
バーナーが笑う。
「正義の味方は忙しいな」
黒蝶は戸の隙間に粘着弾を撃つ。
燃えかけた木を引き剥がし、煙の流れを窓側へ逃がす。
「伏せろ」
中の人足たちが顔を上げる。
「黒蝶……?」
「説明は後だ。走れ」
黒蝶は風を細く通す。
煙を上へ逃がす。
人足たちの背中を押す。
一人。
二人。
三人。
全員が外へ転がり出る。
助かった。
だが、背後で紙が燃える音がした。
ぱちぱちと。
小さく。
確実に。
黒蝶が振り返る。
荷札の束の端が黒く崩れていた。
封蝋付きの袋にも火が移りかけている。
バーナーは火の向こうで笑っていた。
「人は残ったな」
黒蝶はドリームガンを構える。
バーナーは指先の炎を揺らす。
「でも、紙はどうだ?」
黒蝶は撃たない。
撃てば燃やされる。
近づけば、火を走らされる。
風を誤れば、人足たちの逃げ道へ火が伸びる。
黒蝶の手札が、火の中で削られていく。
「黒い蝶」
バーナーは、焦げた荷札を一枚踏んだ。
「お前、火の中じゃ遅いな」
黒蝶は答えない。
壁へ手をつく。
指先に、薄く粘着液を残す。
バーナーは気づかない。
黒蝶はもう一度、梁へ上がった。
証拠の一部は燃えた。
人は逃がした。
火はまだ残っている。
そして、焼却屋はまだ笑っている。
黒蝶は、焦げた外套の端を指で払った。
軽口は戻らない。
ただ、風の流れだけを見ていた。




