第十二話 始末屋は口を閉じる
翌朝。
ルネリア冒険者ギルドの見習い職員リオは、受付奥の机で名簿とにらめっこをしていた。
新人冒険者名簿。
偽依頼票。
黒い羽根印の封蝋。
並べれば並べるほど、気分が悪くなる紙だった。
「リオ」
「はい」
「目が怖いぞ」
主任のマーレが、隣から静かに声をかけた。
「眠いだけです」
「眠い人間は、紙を睨んで穴を開けようとはしない」
「穴が開けば、少しは仕事が減るかもしれません」
「増える。破損報告書が」
正論だった。
リオは名簿から目を離し、こめかみを押さえた。
昨日、旧荷置き場で止めた鉄級冒険者ニコは無事だった。
だが、捕まえた男の一人が言った。
一枚だけだと思ったか。
その言葉は、今もリオの中に残っている。
実際、名簿に載っていた新人冒険者はニコだけではなかった。
宿代に困っている者。
家族へ仕送りをしている者。
短時間の高額依頼を探していた者。
夜鴉は、困っている者から順に紙の上へ並べていた。
「ニコ以外は?」
奥から出てきたオルドが尋ねる。
マーレが答えた。
「今朝までに七人へ直接注意喚起しました。三人はまだ確認中です。衛兵隊にも伝えています」
「ガンドロは」
「衛兵詰所で取り調べ中です。昨夜は喋らなかったようですが、今朝になって少し態度が変わったと」
ガンドロ。
夜鴉支部の荒事担当。
黒蝶が捕らえ、衛兵に引き渡した男だ。
リオは知らない顔で紙を揃える。
知らない顔をするのも、最近少し上手くなってきた。
嬉しくはない。
「喋りそう、か」
オルドは低く言った。
「なら、早めに聞いておけ。ああいう連中は、喋る前に黙らされることがある」
リオの手が止まった。
マーレも、わずかに眉を寄せる。
「衛兵詰所には人を増やすよう伝えています」
「増やして済む相手ならいいがな」
オルドはそう言い、リオを見た。
「リオ」
「はい」
「顔色が悪い」
「今度は目ではなく顔色ですか」
「両方だ」
「範囲が広い」
「寝ろ」
「仕事が終わったら」
「終わらせろ」
非常に正しい命令だった。
リオはうなずき、名簿へ視線を戻す。
だが、胸の奥に引っかかるものは消えない。
喋る前に、黙らされる。
その言葉が、妙に冷たく残った。
◇
その夜。
黒蝶は、衛兵詰所の屋根の上にいた。
表の入口には衛兵が二人。
裏手にも一人。
窓には明かりがある。
見張りは増えている。
だが、夜は広い。
黒蝶は屋根瓦の上に伏せ、風の流れを読む。
煙。
酒。
紙。
濡れた石畳。
取り調べ室の小さな空気穴。
異常はない。
誰も近づかない。
窓も開かない。
室内では、ガンドロが椅子に座らされていた。
両手は縛られている。
向かいには衛兵が一人。
机の上には、証拠品が並んでいた。
黒い羽根印の封蝋。
偽依頼票の写し。
そして、黒蝶対策に使われたらしい防毒布。
ガンドロが捕まった時に持っていたものだろう。
「これは夜鴉の支部で配られたものか」
衛兵が防毒布を示す。
ガンドロは顔を背けた。
「知らねえな」
「では、なぜお前が持っていた」
「拾った」
「倉庫の中でか」
「そうだよ」
ガンドロの声には、まだ力があった。
黒蝶は屋根の上で目を細める。
嘘は下手だ。
だが、完全に黙るつもりでもなさそうだった。
衛兵がさらに問いかけようとした、その時。
ガンドロが咳き込んだ。
「……っ、げほっ」
最初は小さな咳だった。
次に、喉を押さえる。
「おい、どうした」
衛兵が身を乗り出す。
ガンドロは口を開いた。
声が出ない。
「……あ、ぐ……」
喉の奥で、潰れた息だけが鳴った。
向かいにいた衛兵は、咳ひとつしていない。
苦しんでいるのは、ガンドロだけだった。
椅子も机も動いていない。
誰も入っていない。
それなのに、ガンドロだけが苦しんでいる。
黒蝶は屋根を蹴った。
ワイヤーは使わない。
音を殺し、窓の下へ落ちる。
「窓を開けろ」
黒蝶の声に、衛兵が弾かれたように振り返った。
「黒蝶……!」
衛兵の手が、反射的に剣へ伸びる。
黒蝶はガンドロを指した。
「空気だ。こいつだけが吸っている」
衛兵は一瞬迷った。
だが、ガンドロの喉が潰れたように鳴り、机の上の紙に震える指が伸びるのを見て、歯を食いしばった。
「……あとで説明しろよ」
「できれば」
「できればじゃない」
衛兵は窓を開けた。
黒蝶は室内へ滑り込んだ。
ガンドロは喉を押さえたまま、机の上の紙へ手を伸ばしている。
何かを書こうとしていた。
だが、指が震えている。
その指先から、透明な水滴が落ちた。
墨が、じわりと滲む。
黒蝶はすぐに聞き取り書きを掴み、机から離した。
「紙を下げろ。写しを取れ」
「だが、こいつが――」
「命はある。先に紙だ」
黒蝶は短く言った。
衛兵は一瞬迷い、それから頷いた。
黒蝶はガンドロの周囲を見た。
椅子は動いていない。
机の上の紙も、ついさっきまで整っていた。
誰かが押し入った跡はない。
何かが飛び込んできた気配もない。
それなのに、ガンドロの喉だけが潰れている。
黒蝶の視線が、机の上で止まった。
証拠品として置かれていた防毒布。
それだけが、薄く湿っていた。
黒蝶は顔を上げる。
壁の上。
小さな空気穴。
そこから、ごく薄い薬草の匂いが流れている。
強い毒ではない。
だが、防毒布に残っていた薬草の匂いと混ざり、別の匂いに変わっていた。
「反応か」
黒蝶は呟く。
「気づくのが早い」
声は、廊下の奥から聞こえた。
薄灰色の詰め襟上着を着た、細身の男が立っていた。
肩と肘だけに黒革の補強が入ったそれは、冒険者の鎧というより、施療院の処置係の服に近い。
腰には剣ではなく、小瓶を並べた革の薬瓶入れ。
その横には、小さな処置箱と細い筆入れ。
顔の下半分は、何層にも重ねた薄灰色の薬布で覆われている。
黒に近い灰色の髪が、灯りを受けて冷たく光った。
目は眠たげだった。
だが、眠い目ではない。
何もかもを見ているのに、何も感じていない目だった。
黒蝶はドリームガンを抜く。
短い射出音。
眠り弾が飛ぶ。
男は避けなかった。
弾が肩口で割れ、眠蝶粉が薄く散る。
男は薬布越しに、ゆっくり息を吸った。
「眠蝶粉か」
声は低く、平らだった。
「悪くない。ただ、処理が浅い」
黒蝶は答えない。
「何をした」
「口を閉じに」
男は短く言った。
「君を殺す依頼は受けていない」
衛兵が剣を抜きかける。
黒蝶は手で制した。
「触るな。薬を持っている」
薄灰の男は、小瓶を一つ指先で傾けていた。
中で透明な液体が揺れる。
床へ一滴。
落ちた水滴が、不自然に横へ走った。
紙へ向かっている。
黒蝶は風を送った。
水滴の進路をずらす。
だが、一滴は割れて、細かな湿りになった。
床の石目を伝い、机の脚へ向かう。
水を出しているのではない。
一滴を、届かせている。
黒蝶は粘着弾を撃った。
狙いは男ではない。
床。
水滴の先。
黒い粘着液が石目を塞ぐ。
湿りが止まった。
薄灰の男の目が、わずかに細くなる。
「風か」
「水か」
「薬だ」
男は静かに言った。
「水は、運ぶだけでいい」
黒蝶は一歩前へ出る。
その瞬間、男は小瓶を閉じた。
「追うのか」
男が静かに言う。
黒蝶は答えなかった。
背後では、ガンドロが声にならない息を漏らしている。
机の上の聞き取り書きには、まだ湿りが残っていた。
今、男を追えば、書類が濡れる。
ガンドロの状態も悪化するかもしれない。
一拍。
黒蝶は追わなかった。
「写しを取れ。今すぐ」
衛兵に紙を渡す。
「水差しも捨てろ。防毒布には触るな」
「わ、分かった」
衛兵が走る。
廊下の奥で、薄灰の男が振り返った。
「判断は悪くない」
「次は逃がさない」
「次があるなら、見積もりが変わる」
薄灰の男は、音もなく夜へ消えた。
◇
ギルドの自室。
複製体が戻った瞬間、リオは机に手をついた。
喉の奥に、薬草の苦い匂いが残っている気がした。
記憶が返ってくる。
監視していた。
誰も近づいていなかった。
それでも、ガンドロは声を失った。
薄灰の処置服の男。
眠り弾が効かなかった。
水滴。
薬液。
防毒布に残った薬草との反応。
紙を滲ませる湿り。
証人は生きている。
だが、声は出ない。
聞き取り書きも、一部が読めなくなった。
完全には守れなかった。
リオは歯を食いしばり、メモを取る。
薄灰の処置服の男。
眠り弾、効果薄い。
薬布。眠蝶粉対策。
小瓶、薬液、水滴。
空気穴から薬。
反応させる。
喉を潰す。声を奪う。
紙を濡らす。文字を滲ませる。
証言と書類は、一か所に置かない。
写しを増やす。
水気、薬液、証拠品の布、要注意。
そこまで書いて、手が止まる。
リオはもう一行、ゆっくり書き足した。
眠らせるだけでは、止まらない敵がいる。
ペン先が紙に沈む。
「……分かったよ」
リオは小さく呟いた。
「なら、次は仕事ごと止める」
窓の外では、ルネリアの夜がまだ静かに続いていた。




